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専業お母さんから、盛り付けデザイナーへ。50代からの出発。

9/3/2016

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今回のブルックリンママの選択は、10月にブルックリンで教室を開く、盛り付けデザイナーの飯野登起子さん。
 
私が飯野さんと出会ったのは、4年前の2012年の夏、共通の友人が開いた神宮球場の花火観覧パーティでした。(その頃、私は、主人の仕事の関係で、家族で4年弱、東京に住んでいました。)
 
近くで花火が見える中、飯野さんは、大勢の人で賑わうお部屋の角に、落ち着いた佇まいでご主人と一緒に座ってらっしゃいました。お互いの目があい、自分達を紹介した後、飯野さんは 「盛り付けデザインをしています」と、お仕事の説明をしてくれました。その時の言葉一言一言に飯野さんの仕事への想いと意志を感じました。

飯野さんと私は、不思議なご縁がありました。
 
パーティを主催したその共通の友人(アメリカ人)は、私の主人の同僚。彼女は東京支店に赴任になったものの、日本のビジネスカルチャーに慣れずに戸惑っていました。そんな時に手にした本が、何と飯野さんの親友でコンサルタントのローラ・クリスカさんが書いた本でした。そして私は、ローラとは、ブルックリンで同い年の息子を通じて、お互いの自宅で会っていたのです。そう、ローラを軸に、地球の反対側で、私達は繋がっていました。



Picture娘が作ったチーズケーキ
私達家族は、東京生活を終えて、2014年夏にブルックリンに戻りました。その年の冬、飯野さんはローラを訪ねてブルックリンにいらっしゃいました。我家でのディナーにもご招待したのですが、約束の時間になっても一向に現れない。飯野さんは一人でニューヨークを意欲的に歩きまわっているので大丈夫、と思っていても、初冬のNYの午後6時はもう真っ暗。
​
やっとドアベルが鳴って、ドアを開けた時、飯野さんの表情から、我家への道中に 色々なことがあったことが判りました。週末だったので地下鉄のスケジュールが代わり、我家の駅を通り越してしまったこと。降りた駅は、ちょっと危なそうなエリアで、それでも思い切って、目の前を歩いていたお子さん連れのご夫人に、我家の駅までの来方を聞き、そのご夫人が丁寧に教えてくれたことなど。
 
その日は、偶然にも飯野さんのお誕生日。わが娘は、飯野さんのためにお得意のチーズケーキを作っていました。沢山のベリーを上に載せて、キャンドルを立てて「ハッピーバースデー」ソングを歌いました。飯野さんがローラ宅に戻った後、ローラから「みき。登起子はとても感動して戻ってきました。本当にありがとう」と連絡がありました。

それからちょっとして知りました。飯野さんは、娘さんが八歳の時に、娘さんを亡くされていたのです。少し前まで飛び回るほど元気だった娘の突然死・・・。
私には、自分の子供が、その瞬間まで元気だった自分の子供が、突然いなくなってしまうことの想像ができません。飯野さんとご家族の辛さは言葉で語り尽くせなかったに違いないです。
「周りの人に本当に助けていただいた。家族だけでは、立ち直れなかったと思います」と飯野さんはおっしゃいます。
 
最近のFacebookに、飯野さんはこう書かれています。
​『今日は娘の13回目の命日、8歳で旅立ったので、生きていれば、もう21歳、少し心配な年頃だけれど頼もしい女性になっていたのではと想像します。特別な事はしません。何のために生まれて、何故3000日ぐらいで亡くなってしまったのか、そして私は何のために生まれて、20000日近く元気に生き続ける事が出来るのか・・・生きている事、生かされている事に感謝し、今年もお墓参りに行ってきます。』
 
飯野さんから感じる力強さ、大地感は、生への強い感謝なのではないか、と私は思います。そして、飯野さんが、お皿に盛りつけた食材やお料理が、それぞれの色を放ち輝いているのも、生命への感謝、なのかなって。
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鎌倉生まれ、鎌倉育ちの飯野さんは、多摩美術大学デザイン科グラフィックデザイン専攻を卒業された後、グラフィックデザイナーの粟津潔さんのアシスタントとして3年働きます。
出産を期に専業お母さんになり、ご主人のお家に入って、ご主人のご両親とお姉さん家族、12人3世代3所帯大家族の同居生活が12年間続きました。

お子さんは男の子二人。次男が高校生になった時に、家でできる仕事がしたいと考え、食べることが大好きな飯野さんは、テーマを決めて持ち寄りの料理研究会を毎月開催、それを80回以上開きます。プラス、green食堂という架空のおもてなし食堂を定期開催し、おうちに人を呼び、おもてなしをして、こちらも100回近く開店。
専業お母さんをしながらも、展覧会などに足繁く通い、ご自分のアート作品も作り続け、それが今のお仕事につながりました。こうやって少しずつ、でもコンスタントに続けてきて、「子供の手がかからなくなった時は爆発した」と自らおっしゃるように、盛り付けデザイナーとして、意欲的な活動、取組みを始めます。

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盛り付けデザイン教室の様子と、おもてなしパーティディスプレイ
私は、働く母として先輩の飯野さんから大きな刺激を受けました。
 
私も働く母としてNYで10年を過ごしました。私が 子育てに集中しても経済的に大丈夫だったけれど、私は出産後も、どうしても仕事を続けたかった。15歳でアルバイトから始めた私は、仕事をする自分にアイデンティティを見いだしていたんだと思います。仕事で成果をあげ、評価され、沢山の人と知り合う。それが、出産を期に、なくなってしまうことがとても恐怖でした。でも子供に申し訳ないと思う時も沢山あった。出張が多い仕事で、家にいれない日も沢山ありました。出張の日は必ず二人の子供のどちらかが熱を出しました。息子が3歳のある日の朝、出張に出る準備をしていた私に、息子は、「マミー、着替えさせて」と頼んできた。私は忙しく、「自分でやってちょうだい」と、声を荒げてしまった。その日から息子は私に着替えを手伝って、と頼まなくなりました。
 
主人の東京赴任が終わって、NYに戻ってきた時には、娘14歳、息子11歳。思春期に入った娘、難しい時期に環境が二回も代わった子供達に向き合いたい、そして家の改築などもあって、私は専業主婦になる決心をしました。もう40代も後半でした。「これから数年後に就職することは出来るのだろうか」と、不安になる毎日。
 
そんな時に、飯野さんのような女性が、心の支えになっていました。
子供の手が離れた50代に仕事を始めた女性がいる。会社に勤めるのだけが仕事ではないはず。家にいても、自分で何かできる。そう自分に言い聞かせました。そして少しずつ、興味のあること、出来ることから始めて行きました。
飯野さんは、自由大学の「生き方デザイン学」という講義のゲスト登壇でこうお話されています。
『自分が育児を通して皆さんにお伝えしたいのは、人生の先のイメージを持つこと。子育て真っ只中の方には中々イメージを描きにくいかもしれません。子供が大きくなって手がかからなくなってからやろう、ではなく、子供が小さい頃から、イメージを持つと良いかと思います。5年後をイメージして設計してみる。自分は、その時に何ができるのか、頭の中だけではなく、書き出してみることをお勧めします』。
 
私は、飯野さんに伺いました。女性に母親になることを勧めますかって。
飯野さんは、「その人の置かれている環境や、選択なので、こうした方が良い、ということはあえて言いません。でも、できるなら産んで欲しいかな。出産という素晴らしい女性しか味わえない瞬間、子供を持つことで、瞬間瞬間に色々な体験をするのです。毎日変わっていく自分の子供と、どう向き合っていくのか、常に考えます。そして成長していく彼等を見る時の感慨や喜び。それは子育てを通して得られるものだと思います」。娘さんを亡くすという悲しみを経ても、こう言える飯野さんに、人の本当の強さを感じます。
Picture下鴨茶寮、新宿伊勢丹のディスプレイ
​今、飯野さんは、東京の自由大学で『おうちパーティ学』『おいしい盛り付け学』の講義を持たれています。そして京都の老舗、下鴨茶寮の新宿伊勢丹のディスプレイや、広島、愛媛、富山、山口県などの地方創生関連、素材や郷土料理をデザイン、発信するお仕事などをされています。
また、尾道自由大学では『盛り付けデザイン学』の、その特別編として島根の窯元を巡ったり、出西窯の器に、地元の食材を使った料理の盛り付けデザインのツアーを行いました。
尾道自由大学Design Science for Styling Dishes:

 
9月18日(日)には南青山の一軒家のシェアオフィス FARO(ファロ)にて「食」と「職」をテーマに開催されるイベントGOCHISOTABLEの盛り付けデザイナーとして、料理研究家の料理を 斬新な盛り付けデザインで披露されます。
 
「息子世代の若い人達と同じ舞台で仕事が出来るのはとても嬉しいこと」と肩に力を入れることなく、確実に活躍の場を広げていらっしゃる飯野さん。
 
生に感謝し、命をくれる食に感謝し、食材や料理、そして器を魅せることを日本中で伝えて廻る飯野さんが、この10月にニューヨークにいらっしゃいます。
10月23日(日)に、飯野さんの盛り付けデザイン教室がブルックリンで開催されます。教室の詳細はこちらから。参加にご興味がある方は、早めにお申し込み下さい。


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自分の人種だから、感じ得ること、出来ること。(後編)

7/4/2016

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子供が赤ちゃんのうちは、キャリアを追求したブランディ。
今、コーポレイトから教育の現場に仕事を変え、コミュニティ/インクルージョンのディレクターとして、人種、宗教、家庭環境、LGBTをインクルードした教育現場の整備に日々打ち込んでいる。
アフリカ系アメリカ人のブランディが体験してきたから感じる子育ての不安、そして、自分の子供達には体験して欲しくないこと。それは、もしブランディの話を聞かなければ、私には想像もできないことでした。
*前編はこちらから。
 ー 今、学校のポジションでされていることについて教えてください。
 
 色々な角度からのアプローチがあります。
学生達へのインパクトをもたらすには、幾つかの方法があります。
まず、年に数回ファカルティ(教員を含めた学校関係者)ミーティングをリードし、ダイバーシティ/インクルージョントレーニングをします。
学生、特に中学、高校ではアフィニティグループの活動を助けます。

先生達と一緒にカリキュラム作成に参加します。子供を教える際に様々な子供達の意見が反映されているか、もし、教室で一定の子供達のグループだけの目線で教えていたら、それ以外のグループの子供達を間接的に除外することになります。
ファカルティのプロフェッショナルデベロップメントを行ったり、親達に向けて、様々なダイバーシティ普及の教育プログラムを運営したり、理事に向けてダイバーシティとインクルージョンについての報告なども行います。
アドミッション担当ファカルティと一緒にダイバーシティ/インクルージョンが生徒の入学決定に活かされているかを確認します。

ファカルティやスタッフの採用の際に、私も面接に参加します。採用にはHRのバックグラウンドが活かされています。子供達を教える教師のこれまでの経験が、この学校にこれまでになかった新たな発想や考え方をもたらしてくれるか。また私達と同じ方向に進もうとしている人なのか、などを採用する際のクオリフィケーションにします。
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また日々の学校生活の中で対応が必要なことが出てくることもあります。私の考え方や知識、経験がその対応で活かされる時もあれば、親御さんと一緒に対応する時もあります。
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 ー コーポレートにいる時に次のステップが見えなかった、ということですが、では、今の仕事が、そのステップだったのでしょうか。
 
 そうですね。そして興味深いことに、仕事を始めて今が、次のステップについて考えない初めての時とも言えます。
この仕事を始めてから、9月で三年目に入るのですが、今のゴールは、次のステップがあるかどうかではなくなって来ているのです。
若かった時は、上を目指して常に次のポジションをゴールにしていました。でも今は、自分がしている仕事に集中しているのです。教育機関で働くことは、企業の環境で働くことと全く違います。この二年は、新しい環境で私自身も学んでいますし、そして自分がコミュニティの役に立っているのか、もっと役にたつためには何をすれば良いのかを自問自答しています。
 
 ー あなたの人種は、教育機関で働くという決断に影響していますか?
 
 私は高校生の時に私立高校に通いました。実は、20年前に私が私立高校に通っていた時と、今とさほど状況が変っていないのです。そのことは、この仕事に就くモティベーションに大きく影響したと思います。
有色人種で女性の私が、中学、高校と白人が大半を占める教育機関に通ったということは、今の仕事場であるこの学校でも、白人以外の子供達と同じレンズを持っていることになります。私立高校に通う白人以外の生徒は白人の生徒と違う見方をするということを経験してきましたからね。
​私の人種がしてきた経験 − 生徒として、親として、そしてキャリアを追ったプロフェッショナルとしての経験からの見方が、よりより社会のために役に立つことはないのか、と考えさせてくれるようになりました。

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 ー 働く母親として一番チャレンジと感じることは何でしょうか。
 
 バランスです。
仕事は、自分のことなのです。自分が役に立てているか、自分の仕事はどう評価されているか、これから何をしたいのか。自分の達成感、満足感ですよね。もちろん、自分の子供二人を私立校にいれるだけの収入や日々の生活を送れるための大きな手段ではありますが。それでも、個人としての私の自覚、アイデンティティーは仕事を通して得ていると思います。

そして子供達の母親としての自分です。
私は子供達と十分な時間を過ごしているのだろうか。子供達に必要な注意を払ってあげられているのだろうか。母親としてちゃんとしてやれているかという不安と同時に、もっと一緒にいてあげられないことに罪悪感を感じるのです。
仕事で自分が良い仕事をしているかどうか、の方が、母親として自分が良い仕事をしているのかどうかより判りやすいと思います。
 
良い子供達に育てたい、良い教育を受けさせたい、子供達が大人になった時に、自分の子供時代をどう見るのか。そしてそれを彼らの子供達にどう伝えて行くのか‥。
 
私と主人は家事は全て平等で共同で行います。子供達も、私と主人どちらかが家にいれば同じようにハッピーなのです。どちらか一方に極端に慣れている、ということはありません。
今の仕事に就くまで私はとにかくキャリアにフォーカスしていたので、主人もそこは理解してくれていました。私の主人はイタリア系アメリカ人だからか、料理好きで、夕食の準備も喜んで担当してくれます。
 
でも、子供達のことに関しては、やはり母親なのです。子供達の健康、学校生活、友達関係、教育など上手く行っているかどうかのプレッシャーを感じるのは母親だと思います。
私達の子供達は有色人種です。残念ながら、茶色い肌の男の子を育てることには、女の子を育てることよりも神経を使います。茶色い肌を持つ男の子が社会で体験することは、女の子とは全然違うからです。6歳の長男をみていて、この子がティーンエイジャーになった時にどういう姿になっているのかを時々考えるのです。

 
 ー なぜ長男の方に神経を使うのですか?
 
 息子は背が高くなるでしょう。背の高い黒人の若い男性に対して、恐怖を感じる人達がいるのです。偏見やステレオタイプを持つ人はいるのです。それなので今から息子には話をしていかなければなりません。「警官から声をかけられたらどう対応するのか」。まだ6歳の息子には、こういう話し方はしませんが、でも例えば、「警察の前を通る時はポケットに手を入れないようにしなさいね」とかね。息子は、「でも緊張するとポケットに手を入れたくなるんだ」と言うのです。息子には「人には敬意を持った対応をしなさい」とか、「警官に声をかけられたら、Yes Sirと答えなさい」とか。残念ながら、息子が若者になった時に、黒人の若い男性だということで、警官に声をかけられることは、絶対に起きてしまうことなのです。
 
 ー 6歳の今から、それを伝えていかなければならないのですね。
 
 彼らが自分自身を守るためには必要なことなのです。
娘は違います。女性は、社会で犯罪の脅威ではないからです。でも、娘が友達といる時、弟と一緒にいる時に、何か起こった時のために、話はしていかなければなりません。
 
こうやって、「しなければいけないこと」をこなすことに毎日必死になって生活していると、瞬間を楽しんでいないことに気がつきます。二週間後に誕生日が来るのだけれど、振り返るとこの10年、あっという間に過ぎてしまいました。
家庭と仕事のバランスをとり、良くやっているなぁと感じながら、子供と一緒にいる瞬間を大切にしていきたいですね。この10年があっという間に過ぎたように、忙しさに追われているといつのまにか子供達がティーンエージャーになり、何を聞いても上の空の返事しか返ってこないようになってしまうのでしょうね。

 
 ー 先ほど、ご主人と家事/育児を分担するお話をしてましたね。
 
 女性が仕事と家庭を両立するためには、夫の家事/育児の参加が不可欠です。親業、家庭を一人でこなしキャリアを目指すのには限界があります。
米国では、もちろん地域や家庭によって差はありますが、家事/育児は夫婦でシェアします。そうすることで、女性も仕事に集中できるのです。家事や育児は想像以上のエネルギーと時間を使います。一日の時間は限られていて、その時間内にできることは限界があります。夫がその役割をシェアしてくれれば、その大変さが理解できるのです。

 
 ー 母親になってよかったと思う瞬間はどんな時ですか?
 
 自分の子供達が人として成長している姿に触れるときです。人に親切にしたり、良い友達でいてあげようとしたり、問題があれば、自分なりに解決策を考えている姿を見ると愛おしく思います。良い人間を育てていると感じる時は一番の喜びです。
そして、子供達が学校や生活の中で、親との会話の中で学んだことをひらめきに感じている姿をみる時もそうですね。彼らの中で、電球が付いてパッと明るくなるような、そんな瞬間です。先日も、学校に通う途中で、息子が私に学んだことを一生懸命説明してくれるのです。彼にとっては初めて得た知識で、それを私に説明しながら、自分がどうその知識を適応するかを、彼なりの戦略を語ってくれる。そんな姿が親として何よりも嬉しいですね。
 
そしてハグ。朝起きた時に子供達を抱きしめる瞬間はたまりません。いつまでしてくれるのかしら。。。と、思いながら。



💎次回のブルックリンママインタビューは番外編。盛り付けデザインの第一人者、盛り付けデザイナーの飯野登起子さんです。
飯野さんは、東京の自由大学で『おうちパーティ学』『おいしい盛り付け学』の講義を持たれています。そして、京都の老舗『下鴨茶寮』の京都や新宿の伊勢丹のディスプレイや、広島、愛媛、富山、山口等の地方創生関連、素材や郷土料理をデザイン発信する仕事等、活躍の場を広げていらっしゃいます。また、尾道自由大学では、先日、島根の窯元の器に地元の食材を使った料理の盛り付けデザインのツアーを行ったばかり。器、食材の魅力や可能性を引き出すプロでもあります。
10月にニューヨークで講座開催予定の飯野さんに、子育て観、ワークライフバランスについて伺います。お楽しみに!

飯野さんの盛り付け学への想いと、講義の様子、そして生徒さんのコメントはこちらのリンクでご覧になれます。
飯野登起子「盛り付けデザイン学」第5期@尾道自由大学
島根の窯元の器と地元の食材を魅せる:尾道自由大学Design Science for Styling Dishes:

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自分の人種だから感じ得ること、できること(前編)

6/7/2016

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ブランディ・メレンデス。
イタリア系アメリカ人の夫と、9歳の長女と6歳の長男とブルックリンで暮らす、生まれもブルックリンという生粋のブルックリナイト。
 
アイビーリーグのブラウン大学を卒業。2年前に、企業のエグゼクティブポジションを去り、職場を教育の現場に移す。
現在はブルックリンにある私立校のコミュニティ/インクルージョンのディレクター。

アフリカ系アメリカ人のブランディが、教育現場にダイバーシティとインクルージョン普及を使命とする話には説得力がある。

ばりばりキャリアウーマンの顔から始まったインタビューは、愛情に溢れた一人のママの素顔へ。
​インタビューを前半と後半に分けてお届けします。

 ー 2007年に、長女を出産した当時の仕事は何でしたか。
 
 IT企業のヒューマンリソーシス(HR)のVPでした。
大学卒業後に就職したその会社は、当時は小規模だったけれど、吸収合併を繰り返し、今では大手IT企業です。
 
 ー 出産前、キャリアと子育てをどう考えていましたか。
 
 私は大学を卒業してすぐの1999年に仕事を始めました。長女を出産したのは2007年、長男を2010年に出産しました。

長女を出産した時は31歳だったので、キャリアウーマンの中では、私は早い時期に出産している方ですよね。でも出産した時は、仕事を始めて8年経っていましたから、HRのスペシャリストの道は築いていました。
多くの女性が、大学卒業後にMBAをとったり、キャリアを積み、ある程度のポジションになってから子供を産むという選択をしますが、私は若いうちに子供を産んだ方が後々楽だろうと漠然と、でも確実にその選択をすることを意識していました。

結婚したのは2006年で、結婚して翌年に出産しました。主人とは、結婚する数年前から交際していましたが、子供が欲しかったので、結婚することにしたのです。そして二番目の子供も間をおかずに産みました。そうすることで、子供が学校行く年になるまで、更に仕事に集中することができました。
 
 ー 仕事している時のチャイルドケアはどうしていましたか?
 
 子供が小さい時はフルタイムのナニーがいました。
 
アメリカでは出産後、12週間の一時的労働不能休暇*(Disability Leave)が適応されます。*雇い主にこの休暇を取っている社員への支払いの義務はない。

私は出産直後に12週間の休暇を全て消化するのではなく、まず6週間を使い、残りの6週間を数ヶ月間の間にパートタイムという形に置き換えて休暇を消化する形にしてもらいました。

三ヶ月間、職場から全く離れしまうよりは、時間を短縮してでも仕事を続ける方が、仕事復帰がしやすいと思いましたし、収入が絶たれることもありません。そういう選択ができたことはラッキーだったと思っています。
 
長男が4歳になって学校に行くようになってから、パートタイムのベビーシッターにお願いしています。子供を学校からピックアップして、私か主人のどちらかが帰宅するまで子供の世話をしてくれています。
​それと私の母が近くに住んでいるので助かっています。ベビーシッターは三時半からお願いしているので、子供が病気で学校に行けない時などは、母が来てくれます。
 ー 2014年に今の仕事に就くまでは残業なども多かったのでは?
 
 企業の中には働く母親の勤務体制に理解を示してくれるところも増えてきたかもしれないですが、企業戦士である限り、母親への特例は適応されないのが実情なのです。それに自分自身の働くことの理念も、働く限りは120%で臨みたい。
 
出産後、赤ちゃんの時に仕事に戻ることに罪悪感がある人が多いと思うけれど、私はなぜか、良い環境できちんとしたケアの元に子供を託していくのであれば、子供が学校に通うようになるまで、自分のキャリアを積むことに集中したいと思っていました。それなので2007年に長女が産まれた時も死にものぐるいで働きました。二年も間をおかずに長男を出産したのも、とにかくキャリアに集中したかったのです。
 
 ー それはなぜでしょう。
 
 私は常に、子供がある程度大きくなった時に、一緒にいれる時間を持てるような仕事をしたいと考えていました。学校に通う頃になった時に、勉強を含めた学校での悩みや、思春期の時にさりげなく側にいてあげたかったのです。
 
 ー そう願っても、なかなかな仕事の環境を替えられない母親達も多いですよね。コーポレート時代から教育の現場に仕事を変えた時のことについて教えてください。
 
 大学で心理学を専攻していた私は、自分の学位と興味を活かせるHRの仕事に就きたいと思っていました。
会社が合併される度に会社の規模は拡大し、私は、中小企業だったその会社のHRを、大手企業のHR部署に発展させました。
会社の成長と共に、私の責任も増え、それがやりがいだったのですが、HRのVPになった時点で、本来、従業員のために働きたいから就いたHRの仕事だったのに、企業側に立つ立場としての役割に時間が取られることが多くなって行きました。
そしてITは24時間週末もない体制です。自宅にいても仕事を続ける感じで、生活に影響が出るようになりました。仕事と私生活を分けることが難しくなったのです。
 
それと、会社内で次のキャリアステップを考えた時に、自分が目指したいステップがもうその会社にはないように思いました。自分がそのステージに到達する前は、会社内での次のステップに魅力を感じ、上を目指してきましたけれど。
会社の私の評価は適切だったし、待遇にも不満はなく、一緒に仕事をする人達も仕事のプロばかりで刺激的でした。
でも会社が大きくなるについて、企業体制の柔軟性も失われて、本来自分がしたいHRの仕事を見つめ直すようになっていきました。
 
企業内HRのプロとしての自分の将来に迷いが生じた頃、ある日、子供を学校に送った時に、校内で校長先生に出くわしました。その時ちょっと彼と立ち話をしたのですが、校長が、「ダイバーシティとインクルージョンでリーダーシップをとる人材を探そうかと思っている」と一言。偶然にも、丁度その頃、教育の現場にそういうポジションが必要なのでは、と私は思っていました。
校長の話を聞いて、自分のHR畑のキャリアが教育の現場で活かされるのでは、と思い、それから数週間経った後、自分からそのポジションに手を挙げました。
 
私は特に信仰心が強い訳ではないけれど、この仕事に就くまでになった経緯にセレンディピティを感じています。(セレンディピティとは、自分が欲しいものに対して自分を能力やスキルをセルフプロモートすれば、自分に返って来る、ということ)。
私は、教育の現場でダイバーシティに関わる仕事があればいいな、と思っていた。でも仕事が忙しくて学校の行事や活動に関わる時間はなかったので、学校がそういうポジションを創ろうとしているのは知らなかった。
偶然、校長と立ち話をしたことがきっかけで、自分から手を挙げた。そして自分が望む仕事が得られた。学校も思わぬところで、私という人材を得た。何か運命的なものを感じます。
 
このポジションになっても忙しいことには代わりはありません。例えば今週と来週は仕事で夜が遅くなります。でも以前のように24時間仕事に臨む体制でいる必要はありません。週末や休暇も子供と一緒にいれるのです。
以前の仕事を続けていたら、子供達との時間はなかなか取れなかったでしょう。(後編に続く)


後編は、6月20日に掲載します
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ブルックリン・ママ達の意外な素顔にせまった

4/18/2016

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ニューヨーク:母親達の選択シリーズを始めて、来月で一年になる。
 
この連載を始めようとしたきっかけは、2011年から3年半、主人の仕事の関係で東京に住んだ時のこと。何度か女性活用セミナーに参加したが、その時の一つのセミナーで、50代以上のアメリカ人女性のパネラー達が、「子供を産んでもキャリアは続けられます。ベビーシッターやナニーを雇えば良いのです」的な発言をしている時に、何かちょっと腑に落ちない気がしたことだった。
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私の周りのアメリカ人ママ達の多くが、子供と一緒にいる時間を持つために、出産前と違う仕事をしていた。有名大学卒で優秀で、それでも出産前のキャリアに見切りをつけワークライフバランスを選んでいた。
『子供産んだらナニー雇って仕事復帰』以外の女性の社会復帰のケースを紹介したいな、と思った。
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ワークライフバランスを可能にさせた女性達へのインタビューを重ねるうちに、アメリカの育児支援や制度が、そして環境がそれほど良くないことを発見した。育児休暇はDisability(直訳すると“障害”)という扱い、職場での働く母親への理解も思ったほど良くなかった。
 
アメリカでは出産後にDisability Leave − 一時的労働不能休暇が適応されているところがほとんど。この休暇は、職は守られるが雇用主に支払う義務はない。(父親への有給育児休暇が出るところはもっとまれ)。もちろん例外はある。これまでインタビューしたママ達の中にも、雇用先から有給育児休暇が出た人達もいる。大手コンサルタントファームにいたアリッサと弁護士のイボンヌだ。でも来月号に載せるアイビーリーグ出身、IT企業のHRでVPをしていたブランディさへ有給育児休暇はなかった。
 
自分がラッキーにも、出産時に勤めていた会社を辞め、フレキシブル体制で働ける職場に再就職し、仕事と家庭を両立できたこと、主人も一人目の時は3週間、二人目の時は2週間の有給育児休暇が出て、「すごいな。さすがアメリカ!」と感動した。そして世のご主人も、そして出産した女性達も仕事先から有給育児休暇が出ているものだと思っていたのだ。大きな勘違いだった。

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ニューヨークのチャイルドケアはべらぼうに高く、よっぽど稼いでいるか、自宅で仕事ができるか、親など家族が近くに住んでいるか、でないと税金を払った後赤字になってしまうほど高い。
例えば、新生児をナニーに預けるとしよう。ナニーに1時間15ドルのレートで1日10時間お願いすると、1ヶ月に3000ドルかかる(1ドル100円として月に30万円!)。じゃあ、託児所は、ということになっても、ニューヨークタイムスの2013年11 月の記事によると、きちんとした託児所で最低、年間25,000ドルから30,000ドル(250万円−300万円)。
 
なのでニューヨークでも出産後に仕事を諦めざるを得ないケースも出ている。知り合いのセラピストによると、若いママ達が、仕事が出来ないことに対する不安と、稼いでいない罪悪感で相談に来るケースが増えているそう。それでも子供は多い。ブルックリンの我家の周りもストローラーを押すママパパが一杯いる。

インタビューを通して発見したのは、アメリカ人にとって、結婚イコール、家族になることなんだな、ということ。「子供をなぜ産もうと思いましたか?」という質問に彼女達は不意をつかれた表情をしていた。「結婚したら産むという選択肢しか考えてなかったわ」と言ったのはジャッキー。逆をかえせば、子供を産まないなら結婚しなくても良いのでは、ということか。次号に載せるブランディも、「数年つきあっていたけど、子供を産もうと思ったので結婚した」と言っていた。

仕事に復帰した後、働く母親に対する職場での理解が、想像したより低いことも意外だった。
コンサルタントファームにいたアリッサの話では、子供を持たない社員達が定時に帰る母親社員に不公平だと陰口していたというし、シャミーナは、子供がいる男性上司から、「女性は出産後辞めたりフレキシブル制を求めて来るから、あなたの昇進は見送ったよ」と言われたという。
定時に帰宅するのであれば、出世は難しい、というのを語ってくれたのは、弁護士のイボンヌ。子供がいる女性パートナー弁護士は、彼女がパートナーに昇格するためには、定時で帰ることを認めなかった。イボンヌは、「パートナーにならないなら辞めるしかなく、辞めることは、弁護士のキャリアを諦めることだと思っていた。キャリアを追求する女性達のお手本は沢山いるのに、育児と仕事を両立させようと思った時にお手本となる弁護士の女性がいなかった。だから仕事を辞めるのは恐怖だった。」という話をしてくれた。
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なぜキャリアを追求した母親達の話は取上げられるのに、バランスを取ろうとする母親の話は取上げられないのだろう。続けられる選択もとれたのに、辞める方を選んで、子育てしながら新しく自分の道を切り開いて行こうと思うのだって、もの凄いパワーがいる。常に自分を奮い立たせなければいけない。孤独も感じるだろう。
イボンヌは、インタビューで私に話している間に、「フルタイム以外の弁護士を知らなかった。見本となる女性がいたら恐怖も薄れていたかもしれない」ということに気がついたようだった。アメリカ人にも、ワークライフバランスをとるママ達のケースがもっと紹介されてもいいのになぁと思った。
先ほども登場した知り合いのセラピストは、「あなたのインタビューをニューヨークのママ達が読んだら、勇気づけられるかもね」と言っていた。
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インタビューした彼女達夫婦に共通していえるのは、父親も家事を分担すること。掃除はほとんどのミドル/アッパーミドル家庭で、お掃除おばさんを雇っているので、家事の中で時間が取られるのは食事作り。夕飯作りはご主人が担当する、という夫婦が結構いる。
もしご主人の仕事柄、平日は家事に協力できない場合は、週末に料理などを楽しんでいるし、子育てに関しては精神的には全く分担。躾、進学等のチャレンジは夫婦で臨む。そうは言っても、自分の経験や周りの母親達を見ていても、学校や医者への連絡、諸々の緊急時は母親が対応するので、分担しても母親が家事/育児に費やす時間は夫よりは多いと思う。
 
アメリカは主夫もいる。私の長女が2歳頃に良く遊んでいた双子の男の子のお父さんは主夫だった。奥さんの方が収入が多かったので、ご主人が子育てを担当することになった。彼はアイビーリーグ出身のジャーナリスト。双子が小学校に入る時に、ジャーナリズムの仕事に戻った。
フルタイム主夫でなくとも、奥さんの収入が高く、仕事の地位も高い場合、夫がフリーになって、子育てに対応している家庭もある。例えば、私の知り合いで、奥さんは大学法学部の教授。ご主人はフリーの建築家で、子供の送り迎えはご主人が担当している夫婦もいる。このシリーズでも、主夫になることを選んだパパを紹介する予定でいる。
そして、これまでインタビューした人達は、選択が出来た人達だったが、長時間働くしか選択できない親達もいる。これからはシングルマザーにも話をききたいと思っています。

ニューヨーク/ブルックリンママ達の奮闘ぶりを紹介するつもりで始め、一人一人に話を聞いていくうちに、知ったつもりになっていたアメリカを再発見したような気がした。
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インタビューしたママ達は、中国系アメリカ人のクレア、インド系アメリカ人のシャミーナ、アルゼンチン人を親にもつイボンヌ、タイ人の母親を持つアリッサ。ユダヤ人のジャッキーとアリサ、代々キリスト教クエーカー派の文化を引き継ぐ家庭だったアレックス。来月載せるブランディはヒスパニック系アメリカ人。
 
彼女達は育った環境が全員違う。英語以外に、家庭で話した言葉もコミュニケーションの取り方も、習慣も祭事も。彼女達の育った文化が強く影響し、それぞれのストーリーがある。
考えてみれば私達の子供達もそうだ。日本人の母を持ち、ニューヨークにいながら、日本の伝統行事を経験し、病気になればお粥を食べ、小さい頃は学校帰りに日本語学校に行き、ボーナスポイントで、三年半、日本で暮らした。
それでも彼らは、どこをどう切ってもニューヨーカー。ダイバーシティの環境で、異なる物、事を受け入れる教育を受け、ディベイト、プレゼンテーションを重んじるクラスで発言を求められ、歩き方、ジェスチャー、全てが都会で育ったアメリカ人だ。
こういう風に全然違った文化の影響を強く受けて育った人達が、アメリカ人として一緒に生活するこの国は、やっぱり凄いなぁと改て感激した。
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インタビューしたママ達は、初めは「オッケー。30分ぐらいでいいかしら」と話を始めるが、話を始めると、1時間になり、時には2時間もとってくれるママもいた。

発達障害の兄を持つ経験が自分の仕事観/子育て観に大きく影響したアレックス。アレックスが小学校の時に、「学年で白人は私だけだった」という経験はどんなだっただろう。「アジア系が強く出ている弟達はいじめられました。それなので母は家族の絆を強くすることに力を注いでいました」と言っていたアリッサ。アダプトした娘について率直に話してくれたイボンヌ。女優を諦め、自分で起業した後、デザイン会社で経営者の右腕になって、子育てと仕事を何とか両立させようと奮闘するアリサ。
話が終わった後に、彼女達は皆、「面白い質問だったわ。色々考えた。自分が頑張ってきたんだな、て思えた。」と言ってくれた。
 
私こそ、話を聞きながら、自分の知らなかった世界に引き込まれ、インタビューをしながら、短編映画を見ているようだった。ストーリーの持つパワーをひしひしと感じた。
 
来月は、ヒスパニック系アメリカ人のブランディ・メレンゼのインタビューです。自ら、「茶色い肌を持つ私が育った環境が、自分の子育て/仕事観に影響を与えました」と話してくれたブランディ。5月10日に掲載予定です。

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夫の勤務先ニューヨークで子供アート教室を開く。可能にしたのは強い意志と家族のサポート。

3/13/2016

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湊美華さん。
 
バイリンガルキッズアート教室、リトルアートガーデン(Little Art Garden)を、2015年にニューヨークでスタートした。
 
ご主人のニューヨーク転勤に合わせ、勤務していた信託銀行を退職し、2010年にニューヨークに渡る。2012年に長男を出産。
駐在妻として米国に渡り、経験のない分野で一からスタートしてアート教室を始めた美華さん。

感動とひらめきを決意に変え、柔軟さとハードワークで確実に前に進む美華さんに仕事と子育てのワークライフバランスについて聞きました。

​ ー ご主人の転勤でご自分の仕事を辞めたことをどう捉えましたか。
 
 日本で働いていた時は、信託銀行の営業職で、成果もあげていたし、お客様に良い商品を販売している自信もありました。でも、その時既に自営業をしている父親の影響か、自分で仕事を始めたいと思っていたので、主人の転勤に合わせて、自分が退職になったことに後悔や抵抗はありませんでした。
 
 ー 出産後も仕事を続けたいと思っていましたか。
 
 子育てと仕事は両立できると信じていました。それは自分でビジネスを起こす意識が常にあったからだと思います。子育てや家庭に影響が出ない時間帯でできることはないか探していたのです。
もともと専業主婦意識が強いのだと思います。子供と一緒にいる時間も持ち、家庭に支障を来さないことが前提にありました。でも家庭に働く大人が二人いた方が、生活/将来設計も立てやすい。それもあって、子育てと仕事の両立を目指して模索して来たのだと思います。
Pictureクリムトがテーマのクラスの画材
ー アート教室を開こうと思ったきっかけは何でしょう。
 
 ニューヨークに来て、子供がまだ一歳半の時に、タイニーグリーンハウス(Tiny Greenhouse)という自宅近所の子供アート・サイエンス教室に通いました。その教室で息子に付き添ってクラスを受けたことが、私にとって大きな転機になりました。
当初は、親子で参加できる自宅から近い教室を気軽に選んだのですが、子供と教室に通うようになって、サイエンスクラスに特に感動したのです。先生はアイデアに溢れていて、毎回題材に選ぶテーマもユニーク。使う素材はシンプルで、子供達は先生が用意するモチーフの上に色を乗せるだけ。それなのに、出来上がる作品の完成度が高く、本当に美しいのです。私は毎回クラスの内容をノートにびっしり書き込みました。アートクラスは世界のアートやアーティストを紹介するというクラスでした。

​
両方のクラスに通ううちに、アートにサイエンスの要素を取り入れた子供アート教室を開く、というひらめきが走ったのです。それまでずっと、色々なビジネス案を考えて来たけれど、これほど自分の中で確実にビジネスにしていきたい、というものに出会えていませんでした。
私がこんなに感動したのであれば、その感動を他のお母さま、子供達と共有できると思いました。
そしてアート教室は、どこの国でも自分の身一つでできます。今後どこの国、地域に住むことになっても、私は仕事を続けられます。

 
 ー 金融からアート教室と分野が全く違いますが、アートを仕事にすることは考えていたのですか? 
 
 長いこと自分で何が始められだろう、と色々と探していましたが、自分がアートをするようになるとは思ってもいませんでした。私は大学で美術専攻ではなかったし、手先も器用ではないので、アート系の仕事に向いていないと思っていました。でも大学で保育士の資格は持っているので、子供に関わる仕事ができると思っていました。
 
自分がアート教室に興味を持って、アートの勉強や調べものをしているうちに、子供の頃の父親からの影響を感じるようになりました。
私の父親は、アートへの投資に積極的でした。アートギャラリーに頻繁に足を運び、子供の私を一緒に連れて行ってくれました。そうやって子供の頃から自然にアートを観て、触れていたからこそ、そのサイエンス教室の先生のセンスや作品の完成度の高さを感じとれたのだと思います。

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ー ニューヨークでアート教室を開く、というゴールは定まりました。そのためにとったステップを教えてください。
 
 第一歩として、まずアートの知識を増やしたいと思い、マンハッタンのFashion Institute of Technology(FITとして知られている)でカラースペシャリストコースを専攻し二年通いました。
 
 ー 学校に通っている間の子育てはどうされましたか。
 
 主人と私の母親が、交代で日本から援助に来てくれました。両家の母親にとっても、孫が小さいうちに一緒に過ごせるチャンスだと、私の夢を前向きにサポートしてくれました。
 

 ー ご主人からのサポートはいかがでしたか。
 
 主人は、私が仕事と育児の両立を可能にする仕事をしたいという熱意を理解してくれていました。今はニューヨークが勤務地ですが、今後転勤があった時でも、赴任地でできるスキルを見つけたいと私がずっと試行錯誤しているのを見てくれていたし、このアート教室に出会った時の私の感激と強い意志を理解してくれていました。私が大学に通うこと、そして大学に通っている間の息子の世話のために、母親達を呼ぶことにも賛成してくれました。
​
それだけのサポートを受けて大学に通えるようになったのですから、どんな状況下でも、カラースペシャリストのコースを終了する、という決意はぶれませんでした。
そして、とにかく沢山の美術/芸術の本に目を通し、クラスを想像しながら参考になりそうな本は全て揃えました。

 
 ー そうやってアートの資格や知識を増やされましたが、実際にクラスを持つことの具体的な計画はあったのですか?
 
 タイニーグリーンハウスで働きたいと思っていたので、FITのコース終了後、ボランティアからでも、働かせてもらえるかをその教室に聞きに行きました。でも残念なことに、教室を閉める話がその時に出ていたようで、人を採用する状況でないと断られました。
であれば、「自分で教室を起こそう」と決意したのです。

Pictureクリムトを作成する子供達。ニューヨークママサロンにて。
ー それまでアートクラスを持っていなかったのに勇気のある行動でしたね。まずどこで始めたのですか?
 
 まずは、日本で始めようと思いました。日本に一時帰国する時に、実家のある地域の公民館でアート教室を持ちました。地区会館は料金が低くリスクが少ないので、初回のクラスを持つには最適でした。
 
 ー 初めてのクラスですよね。それも当時、美華さんには、日本のママ友ネットワークがなかった。人集めのための告知はどうしましたか?
 
 私は媒体を使っても人が来ないことを経験で知っていました。知り合いがコミュニティー誌で生徒募集の広告を出したけれど効果はほとんどなく、自営業の父の仕事でも、DMを1000通出して反応が一人からしかない、という時もありました。公民館の告知媒体にも載せませんでした。
 
 ー ではどうやって人を集めたのでしょう?
 
 私は、口コミが一番効果的だと思っています。自分の信頼する友人や知人の体験ですから、信用できますよね。特に子供向けクラスであれば尚更です。
私の母は顔が広く、そして色々なボランティア活動をしていて、行く先で小さなお子さんがいる
お母さん達に私のアートクラスの話をしてくれていました。母は、より多くの人に話せる機会を増やすために、ボランティア活動などをしてくれていたのだと思います。また、父は小学校の非常勤講師をしていますが、学校で、親御さん達にこのクラスの話をしてくれました。
​
クラスは好評でした。一度目は4組、三ヶ月後の二度目は7組(定員8組)のお子さんとお母さん達が来てくれました。このクラス当日は、主人に息子を預け、母は受付を担当し、父はアートクラスの色々な下準備を手伝ってくれました。家族の協力があって実現したのです。
そのクラスの様子をFacebookに載せたところ、それを見た大学の後輩から「クラスを開いて欲しい」と連絡があり広がる可能性を感じました。
日本で得たこの経験が自信になり、NYでもクラスが持てると思いました。

Picture子供達のクリムト作品。左下はサイエンスの要素を取り入れ、色付き液体に泡を浮かせる。

​ー ニューヨークでクラスを始めたきっかけをおしえてください。
 
 私がFITに通っているのを知っていた友人が、私がカラースペシャリストコースを終了した話をしたところ、ブルックリンの自宅保育『いろはの森』でアートクラスを持たないか、と声をかけてくれたのです。そこから口コミで広がり、今は、マンハッタン、ブルックリン、ニュージャージでクラスを持っています。
 私は、体験してもらえればこのクラスの魅力が伝わると信じています。私があれほど感動したのですから。お陰さまで、アッパーウェスト教室はキャンセル待ちです。私が表現したいこととクラスの内容が、お母さま達からのニーズに合い広がっているのだと思います。

 
クラスが始まる前は、不安もありました。私に、タイニーグリーンハウスの先生達のような完成度の高い作品を作れるのだろうか、と。
回数を重ね、クラスの準備をしていくうちに「出来ている」という実感を持つことができたのですが、ある時、自分のアイデアやクリエイティブさを試されることがありました。
あるお母さまから「クリムトを題材にしたクラスをして欲しい」とリクエストがあったのです。私はクラス二年分のコンテンツを既に用意していたのですが、その中に、クリムトを題材にしたものはありませんでした。


早速デザイン、材料、色などを決め、一から制作し、クラスの流れを構成し、クリムトをテーマにサイエンス要素も盛り込んだモチーフを仕上げました。他にもフランス、ジャマイカ、ミュシャを題材にしたものを制作し、自分が納得のいく完成度の作品が出来たのです。そしてお子さんやお母さん達にも喜んでもらえたのです。
このことが、さらにオリジナル作品を制作し、それらを使ったクラスを持てるという自信につながりました。
 
学生時代にアートを勉強してこなかった私が、次々に発想が湧き作品に取りかかれるのは、私が子供の時に、父親が沢山のアートを見せてくれていたからだと思います。点と点が線で結ばれた気がしました。

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ー 3月1日から、タイニーグリーンハウスでクラスを持つようになりましたね。
 
 はい。一時、教室が閉まる話が出ていたのですが再開されました。クオリティがとても高い教室なのでファミリーから継続要望の声が強かったのではないでしょうか。
ここの教室では3歳半から7歳のお子さんを対象に、モア(モダンアート)エクスプロアー — MoA (Modern Art)Exploreというクラスでアメリカ人のお子さん達に週一回、教えています。私にとっても、アメリカ人の子供や親の反応を肌で体験できる場でもあります。
私がアートクラスを持つきっかけになったこの教室で自分のクラスが持てるようになったことは大きなステップになりました。

このクラスでは、クリムト、ミュシャ、マチス、ルノアール、ゴッホやシャガールの絵から、オリジナルのモチーフを作成して教えています。このコース終了後に子供達がマンハッタンのMOMA(近代美術館−The Museum of Modern Arts)などで、アーティスト達の作品を直に観た時に、このクラスで学んだことが線で繋がってくれればいいなと思います。

 
 ー 今、子育て中のお母さま達にメッセージはありますか?
 
 置かれている環境は人によって違います。私は、主人や家族からのサポートがあり恵まれているとも思います。
ただ自分の将来を決めつけて欲しくないです。私も、銀行員だった時に、アートの先生になるなんて考えてもいませんでした。「この経験がなければ、これはできない」と、自分で選択の幅を狭めてほしくないと思います。

Little Art Gardenのクラス
アッパーウエストサイド:隔週
ニューヨークママサロン:隔週
ブルックリン、自宅保育『いろはの森』:月一回
タイニーグリーンハウス:週一回火曜日
 
リトルアートガーデン(Little Art Garden)のFacebookサイトはこちら。https://www.facebook.com/littleartgarden/ 

​(次回は4月10日にポスティングします)
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ヘリコプターペアレント。自主性を失ったアメリカ人

2/11/2016

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​ミレニアル・フィルムメーカーが作った動画がある。
タイトルは、「ミレニアル:私たちって情けないよね。謝るよ。(Millennials: We Suck and We’re Sorry)」
このビデオの中で、4人の20代から30代前半の男女ミレニアル達が交互に登場し、こういうことを言う。「私たち情けないよね。判ってる。自己中心的で、自惚れていて、ナルシストで、怠け癖があるし、子供だよ。本当にごめん。私たち、最低だよね。私たちの親みたいだったら良かったのに。
でも、何が起こったのか、私たちにも判らないんだ。自分たちは特別だって言われて育った。すごく特別で、特別になるための努力は必要ない、と思わせるぐらいにね。サッカークラスに参加しただけでトロフィー貰えてたし。ね、すごく特別でしょう。それなのに、どうしてこんな私たちになったんだろう。両親はベストの子育てをしたはずなのに。(途中省略)
ミレニアルを代表して、こんなに最低な自分達のことを謝ります。そしてベビーブーマーのようになるわ!(自分達の親の世代)。だって、あなたたち、いかしてるもん」
このビデオを制作したのは、ステファン・パークハースト。2013年にタイム誌に掲載された記事『ミレニアル:ミー(自分)・ミー・ミー世代(Millennialls: The Me, Me, Me Generation)に反応した。

『How to Raise an Adult (どうやって大人を育てるか)』の著者は言う。
 『批判の矛先をミレニアル達に向けるのはフェアではない。ミレニアル達だって希望に溢れ、成功したいと思っている。職場のミレニアル達の態度の批判は、彼等の育てられ方の批判であるべきだ。ステファンが、この記事に反論して私も嬉しい』。
 
この動画作者ステファンは、ニューヨークでフィルム制作を専攻し、大学を卒業したものの、フィルムに関わる仕事にありつけず、地元に帰って、駐車場で働いていた。彼は著者のインタビューにこう応えている。
『母親から“ポジティブであれば、きっと素晴らしいことが起こる”と言われて育ったから、その通りにその機会を待ったのに、一向に素晴らしいことは起こらなかった。ある日気がついたんだ。母親が言っていたことは全くのナンセンスだったんだ、って。それは、その当時の子育てがそういう流れになっていて(セルフ・エスティーム・ムーブメント。結果より個人の存在を尊重する)、“子供に言うべき言葉”だったんだよ。僕の母もその子育てトレンドに忠実に、それが子供の自己形成に良いと、ベストを尽くしていたんだ。
でも、今、子育て中の親達に言いたい。結果を得るには、その目標に向かって、必死に自分で動かないといけない、ということを子供に教えてほしい。』
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​今回は、前回の『NY:母親達の選択』で紹介した、ジュリー・リスコット−ヘイムス氏の著書、『How to Raise an Adult – Break Free of the Overparenting Trap and Prepare Your Kid for Success(どうやって大人を育てるか。過剰子育ての穴から脱却し、子供に成功の覚悟を決めさせる)の続編。
 
今回は、ヘリコプターペアレント子育てからの脱却の提案を紹介したい。
 
紹介するのは13章から18章(17章、19章から22章は省略)。
 
13章:子供達だけで遊ばせる。大人は様々な制限や解決法を与えない。
14章:ライフスキルを教える。
15章:考え方を教える
16章:困難に立ち向かうために必死に働く(動く)。
18章:困難を日常化する。
 
本で著者は、各章のテーマごと、脱却のための提案を詳細で具体的な例やロールプレーなどで書いているが、それを全部紹介すると、この本の翻訳本が出来てしまうので、著者が、それぞれのテーマを選んだ理由になる部分をここで紹介したいと思う。

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13章:子供達だけで遊ばせる。大人は様々な制限や解決法を与えない。
 
著者はThe National Institute for Playのブラウン教授に聴いている。
『“NASAやボーイング社は、R&D問題解決人は雇わない。例え、トップのエンジニアリング大学を出ていてもね。その代わり、小さい時に手を使い、物を作っていた人達を採用する。光らせてみたり、直してみたり、足してみたり、自分の興味からそういう工夫をして創作をする人材だ。
この能力は、航空学の問題解決に必要な能力だが、他分野でも活かされるはずだ。でも、大人が、子供達が遊ぶ時に常駐し、問題が起こる度に解決していたらどうだろう“』。
 
著者は、フリープレイ(子供達だけの遊び)の大切さを強調する。
 
『遊びは、子供達がしなければならならい、産まれて初めての、成長するための仕事。
ボストンカレッジのグレイ教授は、子供達だけの遊びが、精神的な健康に欠かせないと言及している。“子供達には、自分達で選択して、やり方を決めるアクティビティが必要だ。大人は結果を出してあげることが子供のためになると思い、子供達が遊んでいる最中に、助言や、やり方を見せたりするが、それは、子供達が始めたアクティビティとかけ離れ、子供の意志でない方向に行ってしまう”』。
 
前回、公の中で、子供が成長することの大切さを、ウェズリー大学の社会学准教授、ルザーフォード氏の言葉で紹介した。
“今のアメリカ社会は、村(コミュニティ)が子供を育てる、という意識が失われている。つまり、信頼しているコミュニティのネットワークを当てにしながら、子供達が公の領域で成長する代わりに、今の親は、個人の領域で、不安と孤独のなかで、子供達を外の世界に対応させるベストの方法を模索しながら子育てをすることになった。”
​
今この“公”の子育てをしている、カリフォルニア州メンロパーク在、シリコンバレー起業家、マイク・ランザ氏に著者はインタビューしている。
『マイクの8歳の息子は、一人で自転車で商店街に行き、床屋でマイクと待ち合わせをする。もしマイクが遅れたら、息子は、待っている間、床屋の店主と会話をする。床屋の後は、一人で自転車屋に行ってブレーキを調整してもらう。
マイクは、ご近所の存在は、子供が自分独自の代理/媒介を作り出すユニークな場所だと言う。子供達は、親を介さないご近所との対話や触れ合いの中で、世間の中での自分を確立するためには、周りの助けが必要だということを知る。そして周りに見守られる必要もある。ご近所、というのは、家の外でありながら安心できる特別なゾーンで、その中で子供達はしたことのない事にトライし、行い、違う者になれる特別な場所なのだ、と。』

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14章:ライフスキルを教える。
 
学校の宿題がある、テストがある、部活がある、受験がある、だから親が全部する、では、子供はいつまでたってもライフスキルを習得できない。家庭で自分のことを自分ですることは、子供が一番初めに体験できるライフスキルなのだ。
以前観た日本のドキュメンタリーで、ある高校野球部の生徒が、部活で遅く帰ってきた後、自宅で自主トレ、宿題をする前に自分の弁当箱を洗っていた。その男子生徒は不平そうな様子を見せるでもなく、逆に大きな弁当を毎日作ってくれる母親のことを感謝するようでもあった。
部活で帰宅が遅い息子のために、親は洗ってあげたくなる。それを敢えてこの子の親はさせていた。
 
著者は、本の中で、『子供が出来ること、もしくはもうすぐ出来そうなことは、子供にさせる勇気を持つことが大切』という。著者の知合いで、知的障害を持つ子供がいるある家庭が、子供の自立を促すために次のアプローチをとっているという。
  • まず、親が子供にしてあげる。
  • 次に、親が子供と一緒にする。
  • その次は、子供をするのを親が見る。
  • そして、子供が一人で全てする。
 
『このアプローチは、知的障害を持つ子供だけでなく、子供にライフスキルを教えるベースになるのではないか』、と著者は言う。そして、その場で完璧を求めないこと。
​
例えば、先ほどの男子高校生。初めは弁当箱もきちんと洗えていなかったかもしれない。でも、その場で「きちんと出来ていない!」と批判はしない。大げさに褒めることもしない。
でも時をみて、「洗ってくれてありがとう。でも、ここが落ちてなかったから、次からこうしてはどうだろう」でいいのだ。
本の中で著者も(偶然お弁当の例だが)例を出している。『どうしてランチボックスを廊下に置きっぱなしにするの? あれだけ、しちゃだめだって言ったじゃない』と叱るのではなく、『ランチボックスが廊下に置きっぱなしね。このままだとどうなると思う? そうよね、蟻が来るわ。家の中に蟻が入ってきたら嫌よね』と諭す。このやり方は、次の章のテーマにも繋がる。
 
15章:考え方を教える—自分の箱の外に出て独創的なアイデアを持つには。
 
近い将来、コンピューターが出来る仕事に人は就かないようになるだろうと言われている。
本の中で著者は、The Foundation of Critical Thinking(クリティカルシンキング財団)の指摘、“変化が早く、複雑化は更に進み、相互依存が増える社会において、クリティカルシンキングは今、経済的、社会的に生き残るために必要条件になっている”、を挙げている。
『作家のデレシウィクス氏は、彼の本、『最高の羊達の中で(In Excellent Sheep))の中でこう言っている。“若者の多くが、羊のように、親や教育者、社会が彼等の前に置いた様々な輪を、エリート大学、エリート職をゴールに、次から次に飛んでいるようだ。
用意された輪を飛んで、優秀な成績を収め、エリート大学/職の狭き門へのドアは開いてはいるけれど、彼等の心は閉ざされてしまっている。知的グレーエリアに挑戦することは教えられず、覚えてきたことへの正否を知っている事に満足してしまっている。若者はすべきことをしていると思い、立ち止まって、それが自分が本当にしたいことなのか、そしてなぜか、を考えることはしない。テストのための教育と、子供に判断/選択をさせない親、甘やかしで受け身な親達が、この現状を招いた”』。
 
著者は、日常の親子の会話で、クリティカルシンキングは練習できるとする。日常会話はクリティカルシンキングの結果をその場で体験できるので有効的だ。
『私の会話の提案は、質問を繰り返し子供にする、ということだ。質問を途切らすことなく会話を続けるということは、親が子供の発言や行動に常に興味を持っていなければできない。“何”、“どうやって”、“どうして”を子供の答えの中から汲み取っていくのだ。もちろん年齢が上がるにともなって会話の内容も複雑で洗練されていくが、基本的なアイデアは変わらない。
 
会話ロールプレーの例を挙げよう。

就学前の子供との会話例:
 
子供:蝶だ。
親:そうね。蝶ね。良く出来たわ。あの蝶は何色?
子供:オレンジと黒。
親:その通り。すごいわ。

 
ではなく、繰り返し質問することを頭に置き、次のようにしてみたらどうだろう。
 
子供:蝶だ。
親:今、蝶は何をしているのかしら。
子供:花に止まっている。そして次の花に行こうとしている。
親:なぜ蝶は花が好きなのかしら。
子供:綺麗だから?
親:そうかもね。他に理由はあるかしら。何だと思う?(と、話は続いて行く)

 
続けて質問することで、子供が既に知っていること以外に意識をもっていかせ、その知識に関連した次のコンセプトに到達する手助けをすることになる。

16章:困難に立ち向かうために必死に働く(動く)。

文頭で紹介した、動画「ミレニアル:私たちって情けないよね。謝るよ。(Millennials: We Suck and We’re Sorry)」は、困難に立ち向かえない自分達を皮肉っている。

『記憶やテスト重視の教育が主流になると、子供の成績をポジティブ評価しようと「良くできた。頭がいいね」と褒める。でも親のこのフィードバックの効果はマイナスに出ることになってしまう。
スタンフォード大学の心理学教授ドウェック氏は、『成長思考(growth mindset)』− 継続して成長し、学び、努力への忍耐をつけていく、というコンセプトを提唱した第一人者だ。
ドウェック氏は言う。
“頭が良い、と言われてきた子供達は、そのうちに、与えられた課題で思ったほどの力を発揮しなくなる。その理由は、頭が良いと信じて成績が良いと、努力を怠るようになり、その結果、より簡単な課題を選ぶようになる”。この傾向をドウェック氏は、固定思考(fixed mindset)と呼ぶ。これとは反対に、努力に対して適切に褒められた子供達は、成長思考を身につけて行く。“成長思考の子供達は、成功が努力によってもたらされたと知り、どの場面でも課題に努力をすることが望む結果をもたらす、と考えるようになる。そして困難な課題でも、自らの力で乗り越えようとする。努力を重要視することは、子供達に自らの力があることを信じさせ、自らの成功も自分の力で得ようとするようになる。ところが、頭が良い、のように、持って産まれたものであれば、自分の力でコントロールすることに限界を感じ、失敗にたいしての免疫さへ弱めてしまうのだ”。』
 
この一節を読んで以来、私も子供達への褒め言葉を変えた。テストの結果が良いと、「すごいね、頭良いもんね」と、うっかり口走っていたが、「あれだけ勉強したものね。だからだね」と。
主人も「スカラー(scholar—学者)の元の意味は、勉強する人、という意味だから」と、勉強/努力することが、その道のスペシャリストになれると示唆する。
すると、気のせいか、宿題やテストの準備もそれほど苦でないような様子になってきた。
 
そしてこの章でも、著者は子供達に家の手伝いをさせることの重要さを強調している。
家の手伝いには発見がある。例えば皿洗い一つにしても、はねを少なく効率よく洗うためには、と、自然に考えるようになる。雪かきにして(NYは雪が多い)も、どのシャベルをどの角度で使えば効率が良いか等を考えるようになる。効率が良い働きを探る、ということは、自分でやり方を見つけて、次の課題に進むことになる。そして親は、その働きを適切に褒めることが求められる。
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18章:困難を日常化する(困難を乗り越えられるように失敗もさせる)。
 
『子供から失敗するチャンスを奪い、子供が何にでもトップになるための準備にフォーカスし、彼等が一番と褒め称える。親達が、失敗や間違いから子供を守っているつもりでいることが、彼等の成長に害をもたらしている。
子供に、良い人間になること、そして勝ち負けに関わらず、自分が出来る限りの努力をすることの大切さを教えよう。親達は子供に、自分の思い通りに行かなかった時に対応できる忍耐力がつくように子供達の手助けをしなければならない。
私達は、子供達がエリート大学に合格することが聖杯であるかのように振る舞い、常識を逸脱したようなこともしてしまう。例えば、大学への願書を親が代わりに提出するように。
でも、忍耐力は、家庭教師や、テスト準備コース等を子供に与えることで養われない。忍耐力は困難に立ち向かい越えていくことで養われることであって、買ったり生産したりはできないのだ。
頭で、子供達に失敗させることの大切さを理解していても、子に甘いのは親の常、と思うだろう。でも、困難を日常化させて子供達が世の中で生き残るタフさを養うことはできる』。
 
16章で紹介した成長思考と固定思考はその一つの例。

そしてヘリコプターペアレンツが陥る子供に言う7つの嘘と、子供が忍耐力をつけるために必要な7つのCを紹介している。
 
まず、7つの嘘。それは、数々のベストセラー本の著者であり若者や企業にリーダーシップ教育を施すエルモア教授が提言した。

  • あなたはなりたい人に望めばなれる。
  • あなたの選択だ。
  • あなたは特別だ。
  • 皆大学にいかなければならない。
  • 今それを手に入れられる。
  • 参加するだけで勝者になる。
  • あなたが欲しいものは手に入る。
 
これらの嘘が、ミレニアルを精神的に不安定にさせ、社会人として甘い見方を助長するようになったとする。エルモア教授は、子供に対して正直であること、そして率直であることが、子供に忍耐力を植え付けることになる、としている。
 
次に7つのC。これは小児科医で思春期変化のスペシャリスト、ギンスバーグ医師が提唱したもの。彼は著書の中で、忍耐は7つのCで形成されているとしている。
​
  • Competence(適正、力量)子供が興味ややる気を示し努力をしたら、それに気づいてあげること。
  • Confidence(自信)子供の年齢にあったスキルを教え自信を付けさせる。
  • Connection(繋がり)困難にぶつかった時に一人ではないことを知らせること。
  • Character (それぞれの個) 子供がことの善悪を理解し、モラルを守れる人になること。
  • Contribution (貢献) 相手に助けの手を差し伸べ、貢献時の達成感を得ることで、自分が困難に直面した時に人に助けを求めることに躊躇わない。
  • Coping (対応)マラソンランナーのように、様々な困難の度合いや状況に応じて対応して、息長くゴールに向かう力を持つこと。
  • Control(コントロール)自分の人生を自分が操作している認識を持つこと。このことが、自分の限界を広げようとする力を持つことになる。
 
『文献を調査し沢山の専門家やエキスパートに取材することで、私が行き着いた忍耐の定義はシンプルなものだった。“大丈夫。自分で解決策を見いだせる。もしかしたら違う方法があるのかもしれない。それとも自分がそれを本当に望んではいなかったことに気がつくかもしれない。それでも、私は私だ。私はまだ愛されている”、と、こう自分達に言えるようになることではないだろうか。』
 
この著者のシンプルな定義。でもそれは、失敗した自分を責めず、プレッシャーで自分を追いつめない成長思考だ。失敗に対処した経験がなければ、シンプルなようで、こういう思考にはならないのであろう。

​354ページのこの本の各章で、著者は様々な提案を丁寧に紹介している。
 
かい摘んででも、私がこの本を紹介したいと思ったのは、私はこの本を読んでいる時に、日本の社会のことを読んでいるような気がしたからだ。
私は、アメリカは自主性を重んじ、個を尊重し、クリエイティブ/クリティカルシンキングの教育をし、世界のリーダーとなる人材を産み出す国だと思ってきた。産み出してきていたのだと思う。
でもこの本に書かれているように、私も、自分の子供が小さい的はプレイデイトをセットアップし、子供達間の喧嘩を仲介していた。子供達は小学校になっても、「明日は誰と遊ぶの?」と大人に聞いていた。それでも私は、それが自主性を重んじるアメリカの子育てなんだと思っていた。周りもそうしていたからだ。
 
ところが、前回も書いたように、三年半の日本滞在から戻ってNYの私立校に行かせると、アメリカ人ママ友達は、私が中学生の息子を一人で学校に行かせることに驚いていた。よく思われない人もいるかもれしれない、と忠告もされた。
そうやって育てられた子供達が中心となるアメリカの社会と日本の社会が、本を読んでいて何となく似通っている気がしてきた。
そして、この本は日本の子育て/教育にも参考になるのではないか、と思った。
 
まとめていて一つ意外に思った箇所がある。
子供が自立し、失敗から乗り越える大人になるためには、周りに助けを求められるようになること、という点だ。でも、辻褄が合う。助けられたら人を助けようと思う。それがつながり、助け合う、コミュニティになる。信頼できるご近所さんも復活するだろう。それが子供の自立を助ける一つのファクターとなる。
 
最近こんなことがあった。私が息子を一人で学校に行かせることに驚いたママ友の長女が、この秋から大学生になった。このママ友のご主人はアイビーリーグ出身で、長女にもアイビーに行くことを期待していた。
長女が選択したのは、優秀校でランキングは高いが、地名度があまりない中西部の歴史ある大学だった(アメリカは、こういう大学が多い。この本の後半でも、ブランド大学に拘らず、子供に合った小規模な優秀校の利点を書いている)。このママ友も、この大学のことを知らなかった。しかし、行ってみて自分の子供に合っていることに驚いた。そのママは、この本の著者が、あるメディア媒体に書いた記事をFBで投稿した。その投稿に、他ママが「こういう本が出てくれてホッとしたわ」とレスポンスしていた。

​この本が日本で出版されたら役に立つ家庭や組織があるんじゃないかなぁ。
 
(次回は、3月10日のポスティング予定です。ずれる場合もあるので、keep checking in!)
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ヘリコプターペアレンツ−行き過ぎ子育てからの脱却

1/11/2016

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ヘリコプターペアレンツ。子供達が失敗しないように、ヘリコプターのように旋回し、着陸体制をとっている親のことを表現している言葉だ。
 
アメリカで、ヘリコプターぺアレンツによって育てられた子供達に見られる精神的な影響が取上げられて暫く経つが、昨年、ヘリコプターぺアレンツの背景や影響、そしてヘリコプターペアレンツからの脱却について一冊にまとめた本、『How to Raise an Adult – Break Free of the Overparenting Trap and Prepare Your Kid for Success(どうやって大人を育てるか。行き過ぎ子育ての穴から抜け出し、子供に成功の覚悟を決めさせる』が出版され、ニューヨークタイムスのベストセラーになった。
 
​その本の中で取上げられている統計をまずご紹介しよう。
 
『2013年にアメリカン・カレッジ・ヘルスアソシエーションが153大学の10万人の大学生を対象に健康調査を行った。
  • ​84.3%がしなければならない事の多さに圧倒されている
  • 79.1%が精神的に疲弊している
  • 60.5%がとても悲しいと訴えている
  • 57.0%が孤独だと言っている
  • 51.3%が自分で処理できない不安に苛まれている
  • 46.5%が希望がないと感じている
  • 38.3%が抑えきれない怒りを感じている
  • 31.8%が鬱で日常生活が困難
  • 8.0%が自殺願望がある
  • 6.5%が自傷行為がある』
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この結果は、アイビーのような有名ブランド大学だけでなく、様々のランクの学生達に調査した結果。
​例えば、これがアイビーリーグの学生に行った調査だとしよう。その場合「入学前と入学後のプレッシャーが半端じゃないんだろうな」と、何となく納得してしまうかもしれない。
でも、そうでないこの結果。ということは、アメリカの若者に何か起こっているのではないか。
 
著者のジュリー・リスコット−ヘイムスは、スタンフォード大学卒、ハーバードロースクール卒業後、企業弁護士を経て、10年間スタンフォード大学のフレッシュマン(一年生)の学年長を勤め2012年に退職した。
 
学年長をした10年間、著者は入学してくる学生達の親の関与が驚嘆するほど増えていることに気がついた。毎年、自分の子供達が失敗しないように、学生達の成績、課外活動、キャリアの選択に親が関わってくる。と同時に、度を超した親達の関与で、自分を見いだせず大人の生活に必要な知恵や経験を持っていない学生達は増加していた。
 
著者は、精神科医/心理学者/医学機関への取材、著者/教育者/教育機関へのインタビュー、学生達、企業への取材、そして自らの大学での経験と、自らも母親である経験を元に、過度干渉の子育てが子供達に害をもたらしていることに警鐘を打ち鳴らすとともに、解決への提案を一冊の本にまとめた。それがこの本だ。

私がこの本のことを知ることになったのは、NYのとある私立校から、この著者の講演会の案内を受け取った時だ。
講演の案内メールに「過剰関与子育ての弊害」という一文を見た時に、はっとさせられた。
​
我家は2014年の夏に、日本での三年半の生活を終えNYに戻った。
長女は当時14歳で、一人で学校に行くのは当然だが、当時11歳の息子は、初日だけは送り迎えしたものの、翌日からは自分で地下鉄にのり、一人で学校に行った。7歳から11歳まで日本で散々電車に乗ったし、一人で学校にも行った。NYに戻った2014年のサマーキャンプも、一人で地下鉄に乗って10駅先にあるキャンプにまで行った。出来ることは、するのが当たり前だ、と私達夫婦は思っている。
学校に行き始めて一週間ほどたった頃、昔から仲良くしていたママ友に言われた。「みき、すごい度胸だわ。私なんて学校の裏に住んでいるのに、未だに送り迎えしているのよ。だって、その角で何があるか判らないじゃない。私だけじゃないのよ、〇〇だって、ワンブロックしか離れていないのに送り迎えしてるわ。地下鉄だって絶対一人で乗せないわ。でも、忠告しておくわ。ママの中にはあなたがしていることを、正しいと思わない人もいるかもしれない」。12歳ながら身長が180㌢ある男の子のママも、「すごいわね。私は絶対一人で息子を行動させれない」というのだ!
 
「子供だって出来ることはやってもらう」という私のやり方を「放任主義」と非難したママ達もいたに違いない。でも一向に構わなかった。今更取上げたら、それまで息子がエンジョイしていた独立心を奪ってしまう。息子は天気が良い日は、歩いて帰ってくる。ボールをバウンスしながら、車に注意しながら、周りを観察して帰って来るのだ。
そんなある日、息子が「今日、帰って来る途中で、お婆さんに、『お母さんはどこ。一人で歩いたらだめよ』って言われたよ」と言う。人通りの多い道を日中に歩くだけで、こう言われる。
 
しかし、息子が一人で地下鉄に乗っているのに感化されて、息子と一緒に地下鉄に乗ってみたい、という友達が出てきた。きっと大人なしで地下鉄に乗ってみたかったのに違いない。その子が我家に遊びに来る時に、その子のママから電話があり「今日、初めて、大人なしで地下鉄に乗るの。お宅に着いたら無事に着いたか連絡ちょうだい」と言う。

こうやって大人がいつも行動を共にしている子供達は(就学前ならともかく)、周りを注意しないで歩く。大人が危険を事前に注意してくれるからだ。

こんなこともあった。娘が7歳ぐらいだったか、冷蔵庫からミルクを出した。それを見ていたあるママ友は、「みきは子供に冷蔵庫から物を取らせるのね。すごい!」。なぜ取らせないのか、私はそっちが不思議だった。「まだ子供を信用できないのよ。こぼすのが心配で」。こぼしたら拭けば良いと思うのだが、こぼす、という失敗もさせられないのだ。
 
この本にも驚く事例が紹介されている。
親元を離れ、アメリカのある都市で、道に迷ったヤングアダルトが、親にメッセージで「迷った。どうしたらいいの?」と助けを求める。大学のキャンパス内で迷った学生が親にメッセージで助けを求める。
​ある学生は、自宅から寮に送った荷物を寮のビルの前に数日間置きっぱなしにしていた。生徒二人もいたら、学生の部屋まで運べる大きさだったその荷物は、結局その寮の責任者がその学生の部屋まで運んだ。その学生の両親が「荷物があるから部屋まで運んでほしいと」大学に連絡してきたのだ。その学生は、自分で周りに助けを求められず親に電話して親に解決を求めた。
 
彼等は「知らない人に話しかけちゃだめよ」と注意され続けた年代から、車で送り迎えの生活で、道を歩く他人に声をかけるスキルがない。
このヘリコプターぺアレンツをパロディにしたビデオがある。
タイトルは『コプターマミー」で、出演しているホルダーニ家族は、他のテーマでもパロディビデオを出している。タイトルにマミーがついているが、パパのヘリコプター振りも見逃せない。
​
公園で、ママパパが、子供達に間違いが起こらないようにコプターぺアレンツしている姿が可笑しい。
母親達は日焼け止めと虫さされ防止スプレーを持って子供達に上陸しようする。モンキーバーから落ちないように子供達の足を持つ。パパは息子がサッカーボールを蹴っただけで大げさに褒める。サッカーの試合に入れ込みすぎてコーチもうんざり顔。
 
私の子供達が小さい時に公園で遊ばせていた時の情景は、このビデオそのものだった。 私の子供が日焼け止めを塗っていないと、「塗った方が良いわよ」とママ達は忠告してくれた。私だって夏に長時間外に出るような時は塗るが、公園で遊ぶぐらいでは塗らない。
白人の中には塗らざるを得ない子供達もいるかと思うが、では70年代初め頃、アメリカでは公園に行く時必ず日焼け止めを塗っていたのだろうか。ワイプで必ず手を拭いていたのだろうか。主人によると、していなかったらしい。そういう製品もなかった。ワイプでいちいち手を拭かずとも、家に帰って普通の石鹸で手を洗うぐらいで、皆無事に大人になっている訳だ。

私の日本での子供時代もそうだ。公園で泥だらけになり、砂場でも遊んだ。その時だって、砂場におしっこをした犬猫だっていただろうし、でもそれを誰も「汚いからさわっちゃだめ」なんて言わなかった。
​
 最近は3歳まで家畜がいる環境で育った子供にアトピーを含めアレルギーが出ない、という説が出ているようだが、私は納得がいった。私の両親がなぜアレルギーが全くないのかずっと不思議に思っていた。農家で花粉だらけの環境で育っているのに、花粉症すらない。でもこの説で謎が解けた。両親が子供の頃、牛、豚、鳥を飼っていたのだ。
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​話はずれたが、「行き過ぎ子育ての穴から抜け出し、子供に成功の覚悟を決めさせる 」、という本のサブタイトルに興味を持って読んでみた。
 
ベビーブーマー世代の1946−1964生まれの親がヘリコプターぺアレンツの初期の波だ。この年代の親に育てられた子供達がミレニアル世代の始まりだ。
 
子育てと子供時代が変化し始めたのには四つの原因があると著者はいう。
 
『まずは、1981年に起こったアダム・ウォルシュの誘拐事件。NYのソーホーで突然姿を消したアダムは6歳だった。後に無惨な姿で発見された。この事件は、テレビドラマ化され記録的な視聴率を上げた。この事件からミルクカートに行方不明中の子供達の顔写真が貼られるようになり、1988年には犯人を追うドキュメンタリー風テレビ番組が放映されるようになり、アメリカ社会の、他人に対しての不安が増すことになる。
 
二番目はグローバル化の波で、アメリカ人の子供達の学力に対しての不安が増大した。この結果、テストや記憶重視の教育が始まり、親と子供は、学校の宿題の量の多さに四苦八苦するようになる。そしてやり遂げるために、親も手段を選ばないようになってくる。
 
三番目。これが80年代にアメリカで人気を得た哲学、セルフ・エスティーム(自尊心)ムーブメントだ。それは、こう。“結果より、子供の存在に価値を置けば、子供が人生で成功する手助けをすることになる”、というもの。』
競走より参加していることに価値を置いた。参加するだけでトロフィーがもらえるサッカーチームが判りやすい例だ。
 
『四番目は、1984年頃に起こった「プレイデイト」の始まり。これは、母親達が働くようになってから起きたムーブメントで、親がいないから、子供達は学校に長い時間いるようになるか、親が子供のプレイデイトをスケジュールしてベビーシッターが遊びに連れて行くようなる。』
 
仕事を辞めて家にいる親も、子供を一人で歩かせないから、親が遊びに連れて行かせるしかない。つまり、学校が終わって「〇〇ちゃんちに遊びに行って来るねー」という子供発信で子供本位の遊びがなくなってしまった。
​
我家もそうだった。我々が日本に移り住む前まで(長女10歳、長男7歳)は、私は職場で子供達の友人のママ達に連絡し、プレイデートスケジュールを立てて、それをシッターに伝えて連れてもらっていた。私は「ステージママみたいだよな」と良く思ったものだ。そして子供は私によくこう聞いた。「明日は誰と遊ぶの?」って。
 
プレイデイトは、親や大人達が子供達の遊びの場に居合わせることになり、玩具の取り合いやちょっとした喧嘩でもすぐ仲介に入ることになる。子供達自身が遊びを通じて問題を解決するスキルを学ぶ機会が消失してしまった。解決するスキルだけはない。怒りや悲しみや孤独感など、感情の変化を感じるチャンスも逸してしまった。

ミレニアル−90年代の後半に大学生になった子供達を迎え、スタンフォードのキャンパスで新たな現象が起こっていた。
 
『学生の親達の存在がキャンパスでも、そしてキャンパスの外でも感じる機会が毎年増えていった』と著者は書く。
『親達は、息子/娘達のかわりに、大学で子供が成功するための機会を探したり、事を決める。これは大学生であれば自分達で出来るはずのことだ。この現象は、スタンフォードだけではなく、アメリカの4年生大学で生じている現象だ。』としている。
 
著者はこう問いた。
『安全性に過度に敏感になり、テスト重視の学歴中心主義になり、結果より人間性重視を推進する子育てが、80年代半ばから普通になったが、実はこれが、子供達が大人になるチャンスを奪っているのだろうか。こういう子供達が大人になり、紙の上では成果/業績を出しているけれど、いつまでも親の助けを必要とする大人になっているのか。いつも親達によって問題が解決され、何をしても褒められて育った彼等は、現実の社会をどう観ているのか。自分達の人生を自分達が責任を持つ、というハングリー精神を今から植え付けることができるのか。自分達から、子供、というレッテルを剥がし大人になろうと彼等はするのか。もししないのであれば、こういう大人達の社会はどうなってしまうのか。この問いが私を悩ませ、そしてこの本を書こうとしたきっかけだった。』、としている。
 
そして、
『この現象は、大学だけではなかった。私が住むパロアルト*でも、過度干渉子育ての親で溢れていた。何事にもやり方を示し、過保護になり、子供達の生活に過度に関わる。私達は子供を希少で貴重な植物のように扱い、慎重で計算されたケアを施し、子供達をたくましく、これからの人生でより大きな困難に出会った時に立ち向かって行けるような試練も手助けしている。私達の子育ては、人生の準備のための子育てから、人生から彼等を守る子育てになってしまったのか。もちろん、親達はきちんとした子育てをしたいと深く思ってやっていることなのだ。ただこのような過度干渉子育てをする時間と収入があればのことだが...。私達はどんな子育てが何をもたらすのかの分別をなくしてしまったのだろうか。』と続ける。
 
本に書かれている衝撃のミレニアル達の大学での現状を更にご紹介しよう。
『2010年に心理学モンゴメリー教授が行った調査によると、ヘリコプターぺアレンツに育てられた子供達は新しいアイデアや行動に消極的で、より傷つきやすく、不安症で人前を気にするという結果が出た。反対に、子供の頃から家事等で責任を与えられ親から常に監視されずに育った子供達—フリーレンジャー(放し飼い)達の結果は、その反対だった。
2011年のテネシー大学の教授達の報告では、過度干渉の親達の多くが不安症や鬱で薬を服用している、としている。また、大学のクラスでは、宿題もきちんと提出し成績の良い子供達に、独立した決断を求めると、教授達が生徒達にはっきりとしたやり方を示さない限り、自信がなさそうな様子になる』。『2013年にJournal of Child and Family Studiesが297の大学で行った調査によると、ヘリコプターぺアレンツに育てられた子供達は、そうでない子供達に比べて鬱になるケースが大変多く、自立と受容能力のための基本的精神的成長に必要なニーズを侵害されている』。この他にも驚くべき報告が書かれている。
 
この子育ての傾向はアッパーミドルクラス(中流と上流の間)以上でみられる。ヘリコプターをするためには、コストがかかる。大学の学費が途方もない金額の昨今(1ドル100円として1年600万円の大学もある)、この学費を捻出しながら、習い事、家庭教師、海外での課外授業など、中流階級以下の収入ではできない。
またアッパーミドルの親達は、学歴も職歴も立派で、子供達が大人になった時に、自分達と同じような社会的ステイタス、収入を子供達に得てほしいと望む人達が多い。持つ者と持たない者の格差は広がるアメリカで、自分達の子供達が「持つ者」になるために、ヘリコプターで失敗しないように飛んで行き引き上げるのだ。

本の中でアッパーミドルクラスの母親達について、専門家達の話を紹介している。
『ウェズリー大学の社会学准教授、ルザーフォード氏は言う。”今のアメリカ社会は、子供は、村(コミュニティ)が育てる、という意識が失われている。つまり、信頼しているコミュニティのネットワークを当てにしながら、子供達が公の領域で成長する代わりに、今の親は、個人の領域で、不安と孤独のなかで、子供達を外の世界に対応させるベストの方法を模索しながら子育てをすることになった。”
社会学者のラリウ氏は、”ミドルクラス以上の母親達が、グループの中で子供達が、先生、コーチ、仲間に関わらず平等に意見を言えるようにする子育て(コンサーテッド・カルティベーション)に必死になっていて、子育てをプロジェクトと見なしている”、という。
2012年のthe Journal of Child and Family Studiesが5歳以下の子供を持つ181人の母親達に調査した結果の中で、”子育てを至難と感じ、特別な知識が必要だと思っている母親達は、子育てに専門的ノウハウはさほど必要ない、と思っている母親達に比べ、よりストレスを感じ、気が滅入っている、と報告している。”
心療内科医のガグノン氏は言う。”学歴が高い女性達は、自分達のスキルを子育てに注ぎ込む。彼女達は子育てのエクスパートになったと信じ、不安やストレス、気が滅入りながらも、自分達を子供に投資するのだ。”』
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2015年12月号のアトランティック誌は、パロアルトの高校生達の自殺を取上げている。The Silicon Valley Suicides-Why are so many kids with bright prospects killing themselves in Palo Alto(シリコンバレー自殺—なぜパロアルトの将来有望な若者は死を選ぶのか)。
その記事は2014年の11月に自殺した高校生を取上げ、減らない高校生の自殺について話を展開している。
その生徒は精神的な問題もあるように見えず、虐められている子供でもなく、普通に優秀な高校生だった。高校ではバスケットボールチームに属し、クラスメートからも人気があった。ただ一つ周りの友人達が気づいていたのは、彼が寝ていないことだった。夜中の3時にSNSで「ドーナッツ食べに行く人いる?」とメッセージを送れば、返事をするのはその生徒だった。なぜ、と聞くと、「勉強しないといけないから」という返事だったそうだ。でもそれを苦にしている風ではなく、成績は常にAで、彼にとって良い成績を取ることがそれほど大変そうではなかった、と友達は語っている。
 
いつもAを取らなければいけないプレッシャー、スポーツでもレギュラーで活躍し、課外活動もボランティア活動もこなす。それをしなければ、有名ブランド大学に入れないと、親達は生活に必要なスキルは代わって行い失敗もさせず、子供達にプレッシャーをかける。
 
著者は、 「出来ると思う」というマインドセットを培うことが重要だと言う。このマインドセットは、セルフ・エフィカシーと言い、これは、70年代に著名な心理学者のアルバート・バンデューラ氏が提唱した心理学のコアコンセプト。
 
『セルフ・エフィカシーは、現実的な成果や目標の到達への意識。当初は成功しなくて、でも挑戦し、また挑戦する。その繰り返しが、気がついてみたら達成につながり、もしくはマスターすることになる。
セルフ・エフィカシーは、セルフ・エスティームと異なる。エスティームは自分の価値や値。エスティームはエフィカシーに影響はするが、エフィカシーは働きや努力して得られた成功で築かれる。エフィカシーが形成される大きな要素は、子供の時にしか許されない挑戦と失敗を繰り返すことだ。そう、子供時代は人間として形成されるのに非常に重要な時期で、私達は、ごく最近になるまでその過程を経て大人になった。それが今は、その大切な過程を、親が代わりにするようになったのだ。』
 
そして、著者は、プレジデント候補、ヒラリー・クリントンの発言を紹介している。
 
『(子供の頃)私達はとても独立していた。大きな自由が与えられていた。でも今は、その自由を子供達に与えるのを想像するのは不可能に近い。その自由を子供達に与えられなくなったことは、社会にとって大きなロスである。しかし、私は子供達が自由に遊び、近所の路上でゲームするなど、私達が子供時代に当然と思ってきたことができる日が来ることを期待してやまない。それが、私達が子供達にしてあげられる一番のギフトである』。
 
 この著者が、講演中に「考えてみてください。この子達が、将来政治を司り、企業のトップとなり、先生になって行くのです。」言ったフレーズが心に残った。
これがアメリカの現象だとしても、日本とも重なるところもあるのではないかと考えた。
 
二月号では、「ヘリコプターペアレンツー行き過ぎ子育てからの脱却」続編。過剰関与/干渉子育てからの脱却への提案を紹介しています。
 
*パロアルト(Palo Alto)
サンフランシスコベイエリア地域にある都市。シリコンバレーの北部端にあり、複数のハイテク企業の本拠地。スタンフォード大学が隣接する。
 
*著者本の文章は引用者のタイトル等を含めまとめて訳している箇所があります。

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パートナー昇格を辞退。それはワークライフバランスのためにとったリスク。

12/10/2015

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イボンヌ・ブラウン
 
労働問題専門弁護士。
 
カリフォルニア大学バークレー校卒業後、NYUロー・スクールを卒業。ニューヨーク州弁護士。
 
アルゼンチン人の両親を持ちサンフランシスコ郊外で育つ。
10歳から4年間を、父親の仕事の赴任先、ブラジルで過ごす。英語の他に、スペイン語、ポルトガル語、フランス語を話す。


​
ロー・ファーム(弁護士事務所)勤務の弁護士は長時間労働が求められる。残業はもちろん、週末勤務も多く、休暇中もクライアントや上司からの連絡に応じることは暗黙の了解。
弁護士の仕事が天職、としながらも、出産後、子供との時間をとる選択をしようとしたイボンヌがぶち当たったワークライフバランスの壁。そして下した決断とは。
 
ブルックリンの趣きのあるブラウンストーン*に、12歳の長男、9歳の長女、ご主人と四人で暮らす。          
*ブラウンストーンーNYを舞台にした映画などに登場する縦長タウンハウスの呼称

— 子供を産む決意をした理由を教えてください。
 
2001年の同時多発テロがきっかけでした。
予期せぬことに命が瞬間に奪われてしまうことを目の当たりにました。もし主人に何か起こったら、私は彼を失ってしまう…。それは、それまで考えたこともない生命への問いでした。私は彼を次世代にも残したい、と思ったのです。
 
— それ以前は子供を持ちたくなかった、ということですか。
 
はい。主人は子供を欲しがったけれども、私が仕事を犠牲にしたくないことを理解してくれていました。
なぜ、仕事を続けキャリアを積むことが私にとってそれほど大切だったのか…。私が子供の頃、母が鬱になりました。 エンジニアだった父は「妻が働くと夫の体裁が悪い」と考える昔の人で、母は仕事を続けたかったのに辞めざるを得なかった。母の鬱は、仕事を辞めたことが原因だと私は思っています。
 
− 出産前は弁護士として長時間労働をされていました。2003年出産後、仕事はどうされましたか。
 
3ヶ月の育児休暇(有給8週間)の直後、週4日勤務をしていましたが、子供が一歳の時に、ファームからパートナー昇格へのオファーがありました。昇格には週4日は許されず、私はオファーを断りました。それをきっかけに、パートナー達との関係がぎくしゃくしていきました。

主人との関係も雲行きが怪しくなっていました。
出産後、息子を託児所に預けていたのですが、同じく弁護士の主人と、毎日、どちらが息子を6時に迎えいくかで口論をするようになったのです。彼の専門は比較的時間に融通がきくので、彼に子供を迎えに行ってほしかったのですが、時間に融通は効けども帰って仕事を続けるなど仕事の量には変化ありません。主人は、私が5:30にオフィスを出ないのは、仕事のそのものよりも、オフィス内で軋轢を生むのを避けるためにオフィスに残っているのではないか、と問いたのです。彼の言う通りでした。
 
結局、私はそのファームを辞めたのですが、退職を決意した一番の理由は、子供を持つ前に、その時の女性パートナー達から、パートナーを選んだことへの葛藤を聞いていたことです。

彼女達はパートナーを選んだことで、家庭/子育てを犠牲にしたと認めていました。そのうちの一人は私に、「パートナーには絶対ならない方がいい」と話してくれました。彼女の息子が思春期の時に色々問題があり、同僚の女性パートナーに「息子のために暫く自宅で働いてもいいだろうか」と聞いたところ、返事は「ノー」だったそうです。それでも彼女は辞めなかった。彼女は、「不明瞭な権力の行使」に対し不満を言うだけでした。
 
そのファームを辞めたことは、それまでの私の人生で最も辛いことと言っても過言ではありません。私は弁護士の仕事が自分の天職だと思っています。そしてそのファームで働くことが好きだったのです。
そのファームは、パートナー6人中3人が女性です。多くのファームでは、パートナーは圧倒的に男性が多いのですが、そのファームは女性に同等のチャンスがありました。もし私が彼らの望む選択を採っていたら、関係は悪化しなかったでしょう。皮肉にも私が仕事よりも家庭を選択したことを受け入れなかったのは女性パートナー達でした。

私はそのファームを辞めた時に、弁護士でいることを諦めなければいけない、と思いました。弁護士という仕事はパートタイムで働くことができない、と思っていたからです。
 
— 女性パートナー達は子供がいなかったのでしょうか。
 
三人とも子供はいましたよ。でも彼女達は自分を優先させたのです。長時間勤務や出張に支障を来さないような、住み込のオペアなどのチャイルドケア体制を整えていました。
 
— あなたもベビーシッターを雇って息子さんのピックアップをお願いすることもできましたよね。

 
まだ1歳にならない自分の子供を、そんなに長時間、そして週末も他人に預けたくありませんでした。
 
— つまり、どんな時でも仕事を優先することができないなら、パートナー昇格はない、ということですね。
 
ファームは、私が、パートナーを選択せず、辞めることを選んだ、としている。でも、私は、私が辞めざるを得ない選択しかファームは与えなかったと思っています。
 
— ファーム退職後についておしえてください。
 
趣味のフラワーアレンジメントがきっかけで、 友人の結婚式のお花を担当したら、ケータリング会社を通して紹介されるなど、フローリストとして数件、仕事をすることがありました。でも、好きにはなれませんでした。
​
そんな時に、以前勤めていたファームのパートナーから、クライアントのオフィスで労働専門弁護士を週に二日必要としている、という話がありました。他のファームでも週二日働ける弁護士を探している話もあり、パートタイム体制で弁護士が出来る環境を得たのです。
今はこのバランスには満足しています。でもそれをパーフェクトだとは言いません。
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— 今9歳のご長女は、ご長男が3歳半の時にアダプト(養子縁組)されたそうですね。
 
二番目の子は始めからアダプトするつもりでいました。
 
父が仕事でブラジルに赴任になり、私は10歳からの4年間をリオデジャネイロのアメリカンスクールに通いました。その時に貧困を知ることになりました。そこには沢山の子供達が道で暮らしていました。
アメリカンスクールは、地元の人達を隔てるように高い塀に囲まれていましたが、お昼の時間になると貧しい子供達が、塀を登って塀の上から、校内の生徒達にランチ乞いをするのです。
ブラジルでの経験は多感な年頃の私にとって大きな衝撃でした。

貧しい親達は子供達を養育できない。そして世界中でそういう環境に産まれる子供達の数は減らないのです。私は一人でもそういう環境で産まれて来る子供達に家庭の愛情と教育を受けて育ってもらいたいと思ったのです。
娘をアダプトした時、娘は生後三週間でした。
 
— ご自分にとって子育てとは何でしょう。 

人として成長させられている、ことです。
自分の鏡のように、自分の長所も短所も子供に映し出されます。自分を顧みながら、自分自身を変えていかなければ行けないことに気づかされる。大人との関係は、相手を通して自分を顧みることがそれほどないと思うのです。
子供達の目を通して世の中をみることは、新鮮で充実感があります。当り前だと思っていたことから喜びを見いだす。彼らの質問に応え説明しようとする時に、それまでと違った視点で事象を観ている自分に気がつきます。
 
− 子育てで一番大変だと感じるのはどんなことでしょう。
 
子供はコントロールできる相手でないことを認めることです。社会は、子供の態度、マナーを親がコントロールするよう求めて来る。それが躾、とでもいうように。でも子供に強要はできないのです。

私と主人は社交的でお友達からパーティやイベント、スポーツの誘いを多く受けます。自分達の子供に社交性があれば家族で行動ができます。でもそうでなければ家族の生活を調整する必要が生じます。

娘は内向的な子です。自宅の外で友達と遊ばないし、友達の家のお泊まり会にも行きません。かならず我家でか、長いこと知っている信頼する家庭以外はね。
家族でパーティに招かれれば、行った先で、初めの一時間は私と一緒に過ごし、彼女の不安が解消されるのを待ちます。その後も私の視界が届かないところには行かないのです。
彼女も、外交的な家で育っていることを理解し頑張っているのだと思っています。
 
− これまでの子育てでした選択で後悔していることは何でしょう。
 
長男の時と違い、アダプトは自分の身体に変化はありません。母乳で育てることもない。娘が1歳になる前に仕事の量を増やしました。その時は週5日働いていました。
でも今、彼女の不安を増長することになったのは、彼女が1歳になる前に、一緒に過ごす時間が少なかったからではないか、と後悔してしまうのです。

でも、彼女の不安の根源の察しはついています。
娘が4歳のある日、二人で手をつないで歩いていました。私達の目の前に初老の男性が現れ、私に「その子はあなたの子?」と質問してきました。私は「そうです」と答えたところ、「その子の母親は、お前にその子を譲ったのか?」と娘の目の前で言ったのです。
​
彼が去った後、私は、私と夫が娘を自分の子として育て、どれだけ愛しているかを言葉で伝えず、その場面をそのままにしてしまった。娘は4歳でした。その男性の言葉を理解したはずです。自分がアダプトされたことを気がついていた。それなのに、なぜ説明もせずそのままにしてしまったのか。。。

親として一番難しいと思うのは、難しい話を子供に話すタイミングの判断です。後で、「あの時に話していればよかった。小さすぎた、なんてことはなかったのに..」と後悔する。
 
娘が癇癪をおこすと、その癇癪は激しく、私の服にしがみつき、大声で叫ぶのです。
ソーシャルワーカーにも相談したところ、娘に話にくいことも話し、彼女と一緒にいる時間を増やし、ポジティブなアイデンティティを築ける環境を与え整えることが大切と助言を受けました。
​娘と一緒に家系図を作り、世界中にいる色々な人種や文化のことを話し、彼女の中の混乱を整理してあげる必要がありました。韓国人家族のキャンプに参加したり、韓国人の大学生に我家の一階に住んでもらって(タウンハウスの一階をアパートとして貸している)、日常的に韓国語を話し会話の中で文化や習慣も伝えてもらっています。今年の夏は家族で韓国に行ってきました。

Pictureブラジルのアート。ブラジルのダイバーシティを表現する。

— お話を伺っていると、決断を実行に移す力を感じます。思春期にブラジルから戻った後のお話をもう少し聞かせてください。 


私はサンフランシスコの郊外で育ちました。裕福な白人アメリカ人が住むエリアです。
通っていた高校の学生達は、ブランド品、高級車など、モノの価値観が中心で、ブラジルから帰って来た私は、その環境に対して拒否感を持ちました。そうですよね。ダイバーシティがあり、カジュアルで、どんな子供でも仲間になるインターナショナルな環境の中で、世の中の不平等を体験して帰って来たのですから。

サンフランシスコ郊外のその物欲的な環境から早く出たかったので、高校を3年で(米国の高校は4年間)卒業してしまいました。大学進学も特に計画を立てずに卒業してしまったので、地元のジュニアカレッジに入学し、その2年後UCバークレー校に編入しました。
 
— ロー・スクールに行く前にキャビンアテンダントをされたそうですね。
 
ブラジルに住んでいた時に、旅が好きになりました。自分の将来を決める前に世界中を旅したかったのですが、大学を出たばかりでお金がない。それなら、キャビンアテンデントであれば、お給料ももらえて旅行もできて一石二鳥です。お陰で世界中を観て来れました。その仕事をした2年間のうちのほとんどを、航空会社ベースのNYで過ごしました。
 
2年後にロー・スクールを受験しました。バークレーの時に精神学と法社会学の両方を専攻し、比較法学、国際法に強い興味を持ちました。
 
— 日本では、定時に帰る母親に対し不公平感を持つ同僚がいるそうです。サジェスチョンはありますか?
 
相手を批判したり決めつけたりしないことでしょうか。
私は、女性の選択が一つしかないと決めつけることは、フェミニストに反していると思います。
人は異なる選択をした相手を批判する傾向があると思います。例えば働く母親対専業主婦。働く母親と子供を持たない女性。人は自分の選択や決断を肯定したい。肯定する手段として同じ選択をしなかった相手を批判するのではないでしょうか。
子供がいない女性は、母親の仕事が大変なことは理解できない、経験していませんからね。でも彼女達にすれば、「子供を産むことはあなたが選択したこと。だから言い訳はできないでしょう」という見解になるのでしょうね。
 
主人の友人の弁護士で、出産後に週四日出勤、朝7時から午後3時勤務体制で暫く働いていた女性がいました。子供が学校から自宅に戻った後に一緒にいるためです。
その弁護士と子供が同い年の別の女性弁護士は、出産後も仕事を採りパートナーになりました。この二人は、お互いがとった選択の理解はできず、パートナーは、もう一人に、「もう子供が高校正だから、普通の勤務体制(長時間労働を意味する)に戻るべきだ」、と言ったそうです。
結局、主人の友人はそのファームを辞めました。娘さんが精神的に色々あった時期で、パートナーが希望するように長時間働くことは無理だと、辞める決断をしたのです。
 
— ワークライフバランスのキーは何でしょう。
 
リスクをとることだと思います。
長男出産後にファームを辞めることになったことが、人生において一番辛い決断だった理由は、私は、一度辞めてしまったら、弁護士の仕事に戻れないと思っていたからです。その「諦めなければいけない」感が、私はすごく怖かった。
私は、子供が小さいうちは子供といる時間も持ちながら、弁護士の仕事を続けるワークライフバランスの見本となる女性を知りませんでした。キャリアウーマンとしての見本となる女性達は周りにいますけれど…。つまりファームを辞める決断は私にとって「弁護士としてのキャリアか、キャリア自体を諦めるか」という決断だったのです。
でも結局は、弁護士の仕事は続けられた。その決断—リスクを取ったから、今のバランスがあると思います。そしてバランスが取れたのは、良い仕事をしてそれが評価されていたからだと思います。
 
ワークライフバランスをとった友人の話ですが、その彼女は、子供を出産した後に、ロー・ファームを辞めて大学で法律のクラスをひとクラス教えていました。そのひとクラスがきっかけになり、大学勤務8年を経て、弁護士としてハイプロファイル(メディア等から注目されること—政治関連のポジションも含む)の仕事に就いたのです。
ファーム時代の仕事が高く評価されていたこと、教師としても優秀だったこと。そしてパートタイムでありながらも、法律業界のネットワークはつないでいたから可能になったことです。

でも最近その仕事を辞めたそうです。私は彼女がその仕事を辞めたと聞いて、とても勇気のある決断だと思いました。次に何をするのか決まっていないのに辞めるというのは勇気がいることです。
 
そして、彼女が辞められたのも、ご主人の仕事の収入が高く安定していたからです。私も、今の勤務体制ができるのは、主人の仕事が安定しており、彼の仕事先から健康保険が出ているからです。もし、そうでなければ選択の余地はありませんでした。私は長時間勤務を優先せざるを得ない環境にいたことでしょう。
 
— 子育てが一段落したら、仕事に全身全霊を傾け長時間労働に戻りますか。
 
時々考えますね。でもロー・ファームのパートナーではないかもしれません。自治体や政府関係の弁護士になることは頭にあります。ただ子育てが一段落した頃、週40時間以上の仕事をしたいかというと、どうでしょうか。
今は判りません。その時の自分の環境、心境によって決めるでしょう。
​

(次回は、年末年始特別篇。アメリカの富裕層に蔓延する極度に過保護な子育てが及ぼす子供への様々な影響について、ニューヨークタイムスを初め、各有力メディアから高い評価を得た2015年の話題本、「How to Raise an Adult」ー ジュリー・リスコット—ヘイムス、をご紹介します。1月10日にポスティング予定です)

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与えられたチャンスを逃さなかった。女優からビジネスに転換しワークライフバランスが可能に!

11/10/2015

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シリーズ六回目はアリサ・ド・フェリス。

テキサス大学オースティン校、インテリアデザイン/建築学科卒業。
3際から19歳までダンスを続けた影響でシアタープロダクションに興味を持ち女優を目指してNYに出る。
​イベントプランニングとパーティデコレーションに興味があったアリサは、女優を目指しながらNYパーティデザインの第一人者、ロバート・イザベル事務所で働く。
元来の好奇心とハードワークで、サイドビジネスで始めた仕事を次々と成功させるアリサ。

ブルックリンのパークスロープのロフト式アパートに、15歳の長女とご主人の三人で暮らす。

常に人に囲まれて仕事をしてきたアリサは鋭い洞察力を持ちながら、異なることへの理解が深い。

秋が深まるブルックリンで話してくれた、アリサのワークライフバランス・ストーリー。


 ー 出産前の仕事を教えてください。
 
 女優の仕事をしていた時にケータリングのビジネスを興しました。もともと料理が好きだったこともありますが、女優業はオーディションで不合格になるたびに挫折感が残り、精神的にあまり良くありません。料理はクリエイティブで人に喜んでもらえます。
クッキーのケータリングから始めてお客様からの高い評価を得て、メニューを手軽なオードブルや軽いディナーに広げ、ビジネスは成功しました。プロのキッチンを借り料理器具も調達しました。マンハッタンミッドタウンのセントバーツ教会での結婚式やワードルフ・アストリアホテルでのパーティなど、大きいパーティでは500人を対象にしたイベントも手がけました。全て口コミでクライアントは増えて行きました。ケータリングの成功に合わせ、女優業は辞めました。

 私は働くことが好きで、ケータリングの仕事をしながら、昼間は石油ガス投資事務所の弁護士の下でパートで一ヶ月働いた後、会社が上場した際にその弁護士のアシスタントセクタリーになりました。私は石油ガス業界に非常に興味があり、関わること全てを学んで行きました。弁護士の上司は、資格よりも個人の能力とセンスを重視する人で、私のビジネスセンスを見込み、「君ならもっと出来るから」と、様々な重要な仕事を任せてくれたのです。法文書の作成もしました。取引を起こすまではいかなかったものの、取引を実現化することはしましたよ。
​
 ケータリングビジネスを拡大することも考えました。でもケータリング業界は、株式公開産業ではないため、どのように利益をあげていくか、というサンプルとなる形態の提示をできず、ローンが組みづらい、など、ビジネス拡大の限界を感じるようになっていました。
 
 出産後に働ける仕事を探している時、事務所で上司だった弁護士が別の石油ガス会社設立時にCEOとなり、「戦力として加わらないか」、と声をかけてくれました。丁度ケータリングビジネスの拡大について迷っていた時期だったので、お引き受けしようと思い、チャイルドケア代を考慮しての要求金額をこちらから提示したのですが、折り合いがつきませんでした。

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 ー ケータリングも成功させ、ビジネスのポジションアップのオファーもあり、仕事で更なる飛躍する選択もあったと思います。お子さんを出産する決意をしたのはなぜでしょう。
 
 主人も私も、夫婦だけの『家族』でなく、子供のいるファミリーユニットにしたかったのです。不妊治療を長く続け、もう子供は持てないのでは、と気持ちが折れそうになった時に授かりました。35歳の時に出産しました。
 
 ー 出産後はどうされましたか。
 
 産まれたばかりの子供を預けてケータリングの仕事もしましたが、体力的にとてもきつく、出産後9ヶ月は自宅で育児に集中しました。実は、この九ヶ月間が自分にとって辛かった時期ですね。

 完璧な母親業をしたいと思っても子育ては自分にとっては初めてのこと。仕事が好きで13歳の時からアルバイトをしていた私にとっても未知の世界で、何から始めていいのか判らないことはストレスでした。主人が戻るまで、まだ話さない子供と二人だけの生活です。特に赤ちゃんの時は、授乳とおむつ替えの24時間/7日間体制で、仕事のように区切りのある達成感はありません。

 収入が必要だったので、月から金のフルタイムで働ける仕事を探していた時に、ケータリングの仕事を通して知り合った著名なカリグラファー(日本でいう書道家。装飾文字を手書きで書く専門家)、エレン・ウェルドン氏から、自分が立ち上げたカード会社を手伝って欲しいという話がきました。(余談ですが、エレンの母様は、ニューヨーク、デザインケーキの第一人者のシルビア・ウエインストック氏)。
エレン・ウェルドン・デザインでエレンの右腕となって15年。会社でビジネスサイドを担当しながら、クリエイティブインプットもしてきました。今はオンライン招待状が主流になってきたものの、企業や結婚式などの正式な招待状はきちんとした招待状を郵送で送るのがしきたりです。クライアントは大企業やハイプロフィール組織、ハイソサエティの個人などで、彼らのビジョンをデザインに表現したハイエンドでアーティステックな招待状を提供し、ビジネスは広がりました。
 
 ー 石油ガス会社からのオファーや、ケータリングの仕事が縁で就いた今のお仕事でも重要なポジションをされている。働いてきたそれぞれの仕事で成果を上げ信頼を得てこられたからだと思います。
​
 ー 仕事を始めてからチャイルドケアはどうされましたか。
 
 主人と私は、子供を託児所ではなく、学校に入れたかったので、一才半でも入れる国連近くにある保育園をみつけて入れました。そこには国連に勤務する家庭の子供達もいて、インターナショナルな環境でした。
その学校は週に二回だったので、フルタイムのベビーシッターを雇いました。トリニダード・ドバゴ出身の素晴らしいシッターでした。一年ほどして、課外クラスもある保育園を探し、その頃勤務地がトライベッカだったこともあり、ワシントン・マーケット・スクール(The Washington Market School)に通わせました。5歳からブルックリンのバークレー・キャロル・スクール(The Berkeley Carroll School)に入園しました。

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 ー このインタビューシリーズでは、あまりご主人のお仕事について伺わないのですが、ご主人と会った当初は、やはりご主人も演劇関係のお仕事でしたよね。
 
 主人は劇場プロダクションをしていました。そのプロダクションスキルを活かし、仕事先を演劇界からコーポレートへと転換させていったのです。ラスベガスで開催されるトレードショー、MTVアワード、ワールドカップ、スーパーボールのハーフタイムショー・プロダクションなども手がけました。今は、大手製薬会社でインターナル・コミュニケーションのプロデューサーを専門にしています。
 
 ー お二人とも演劇界からコーポレートに転身し成功されています。スキルとチャンスを活かし、柔軟なマインドセットと、どのステージでもフルのコミットメントをすることで可能性を広げている。このお話は読者にとっても勇気づけられることだと思います。
 
 ー ご自分にとって、子育てとは何でしょう。
 
 私が人生でしてきたことの中で一番有意義なことです。何の曇りもない、本来人間が持つ愛情で、自分ができるベストを他の人間にコミットするのです。自分ができなかったこと、したかったことをする機会を他の人間に与える。子供がそれをしたくなければもちろん強制はしません。美しい魂を育てることは天からの恩恵のようです。その魂が一人で旅立つまで、親はその船のキャプテンなのです。子供を育てることで見識は深まり、謙虚になります。
 
 ー 子育てでしてきた選択で後悔があるとすれば何でしょうか。
 
 子供が小さい頃に、もし3、4時に帰宅できるような理想的な仕事であれば、もっと一緒にいてあげたかったと思います。その時に教えられたことは沢山あったでしょう。
仕事は残業する日もあり、学校の課外クラス後、シッターにピックアップをしてもらうこともありました。パートタイムのシッターの中には、人は良くても、優しさと甘やかすことの線を引けなかった人がいました。フルタイムのシッターであれば、計画的に一日を過ごし、躾ができる人にお願いしたでしょうね。
 
 ー 子育てで一番難しいことは何ですか。
 
 自分が子供の頃にしてきた間違いを子供にしてほしくない。「こういう親になりたい」という像があります。それは自分の親の反面教師でもあります。でも自分が育った環境からくる習性で、「したくないし言いたくない」ことをしてしまいそうな衝動にかられる時もある。感情的になった時に、ふと言いたくない言葉が口から出てしまいそうになる。怒った時に感情的、直感的で話す言葉を選択しようとする自分を、越えた自分を持つこと。これがチャレンジですね。
 
 ー 日本では、定時で帰る母親と、そのことに不公平感を持つ女性の同僚との間でコンフリクトが生じているといいます。何かアドバイスはありますか。
 
 人生の皮肉とでもいうのか、経験がないことに理解を求めることは難しいでしょう。子供を持ってみて、「定時にかえって子供と一緒にいたい」「子供が熱をだしたらすぐ迎えに行きたい」と考える自分がいることを発見するのです。
女性の特性で、コンフリクトを減らすために解決策を欲しますが、理解できない相手に自分の見解を伝えようとしても、相手に経験がなければ伝わらないのです。定時で帰宅することはルール違反ではないのだから、子供のために帰宅することに後ろめたさを感じないことです。
母親の仕事は、家でも続くわけですが、子供がいないと、その大変さは判らない。でも、不公平と感じていた女性達が母親になった時に、やっと理解できるようになる。その繰り返しだと思うのです。
母親の中には、定時で帰る必要がない女性もいます。例えば私の上司のエレンが子育て真っ只中の時期は、ご主人が比較的時間に融通が効く仕事をしていました。私は、子供が学校で熱を出したら自分が迎えに行きたいですし、病院や歯医者も自分が連れて行きたいと思っています。エレンはご主人がその役を引き受けてくれたけれども、私の主人は出張が多いので私が会社を早退や遅刻して連れて行くことになります。母親同士でも子育ての環境が異なれば、勤務姿勢への理解も異なるのです。
 
 ー 責任あるお仕事と子育てで毎日ご多忙の中、モットーとしていることは何でしょう。
 
 モットー、というよりは、自分のゴールとして、娘にとってよいお手本でありたいと思っています。
母親は、愛情深く、娘のすることに興味を持ち、必要な時は傍らにいてあげながら、価値のある働く者として存在すること。私は仕事を信じています。独立した個人であり、金銭的に人に頼ることはしたくありません。家事もそうです。家事は誰からも評価されず、感情の持って行き場がない。それでも家事も精一杯する。「お母さん、よくやっているね」と娘の見本になるのが願いです。
​ (次回は12月10日に掲載します)

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ニューヨークのコミュニティに寄り添う。そして、これからも“聴”いていく。

10/10/2015

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五回目のインタビューは、アレクサンドラ(アレックス)・ベア・シェンク。
18歳の長女は今年から大学へ、12歳の長男は、ミドルスクールの7年生。

児童教育をミッションとするアレックスは、大学卒業後、児童教育専門の大学院として有名なバンク・ストリート大学院で修士号を習得。児童教育に関わる者として、特に障害を持つ子供達の傍に寄り添う。
ご主人は、ジャーナリスト/作家として日本でも翻訳本が出ている、デイビット・シェンク。2001年に出版した、アルツハイマー病を詳細に取材し分析した話題の本、「The Forgetting(フォゲッティング)」(日本未発売)は、米国社会のアルツハイマー病への理解に一躍買った。
 
大学で英語文学、大学院で「児童教育:リタラシー(読み書き能力)」を専攻したアレックスの言語への情熱は、インタビューの応答が、小説を語っているようだったことからも感じられる。
 
ニューヨークの子供達/家庭に関わり、子育てをしてきたアレックスのワークライフバランスストーリー。

 ー 出産前の仕事をおしえてください。
 
サブシダイド保育園(市から補助金が出ている保育園)で5歳児を教えていました。授業料が私立より低くく、市から補助金を得て通園させている家庭の子供達も通っています。
 
 ー なぜサブシダイド保育園を勤務先に選んだのでしょう。
 
私は小学校低学年の三年間を、ワシントンD.C.にある公立小学校で過ごしました。その学校で白人の女児は、全学校で私だけでした。私の親は、公立教育を信じて、学区の公立学校に子供を通わせることに疑問を持たなかったのです。
私はその学校に通いながら、子供心ながらに、人種間の経済力のギャップや家庭での教育に対する考え方/価値観の違いなどを感じました。結局3年後には私立校に転校することになりましたが、その経験は、経済的に恵まれない家庭の子供を目の当たりにするきっかけになったのです。
​
そして自分の兄のこともきっかけでした。私は五人兄弟の末っ子で、上に兄が4人います。その内の一人の兄は精神的に障害がありました。兄にとって、普通の学校は全てが早く動きすぎ、早く進みすぎ辛い思いをしているのを知っていました。
こういう自分の経験から、どんな子供も公平に教育が受けられることに関わりたい、と思っていたのです。
 
 ー 子供を産む決意をしたのはなぜでしょう。
 
結婚して子供を産まないことは考えていませんでした。30歳で子供を産む決心をしたのは、私と主人の両親が元気なうちに子供を産みたかったのです。私にとって祖父母の存在はとても大切でした。それに、おじいちゃん、おばあちゃんがいると家族が増えて楽しいでしょう。
 
 ー 出産後、仕事はどうされましたか?
 
長女を産もうと思った一年前から、仕事をしながら自分で子育てが出来る環境を整えていきました。出産後は、保育園の仕事は辞めて、学習障害のある子供達を含め読み書きを教える家庭教師をしました。卒業した大学院からの紹介や、私が教えた子供達の親からの口コミで個人の教育者として、子育てとのバランスがとれる量の仕事はありました。
 
 ー なぜ自分で子育てをしたいと思ったのでしょう。
 
保育園に迎えに来る親達が、仕事のストレスで子供達に声をかける元気もない様子を見ていたこと。そして自分の子供時代の経験です。私の親は、子供が多いことに加え、障害を持つ兄に精一杯で、私にあまり注意を払えず、私は子供ながらに、親に甘えてはいけないことを察していました。私は自分の子供には同じ思いはして欲しくなかったのです。
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 ー 日本に長期滞在した経験をお持ちとのことですね。その時の印象や体験を聞かせてください。
 
長女が18ヶ月の時に、主人の仕事で二ヶ月間、東京、西麻布に住みました。
まず気がついたのは、女性が美しいこと。完璧な髪、肌、体型、洋服。。。ただ他人の目を気にして外見に執着しているようにもみえました。
公園で娘を遊ばせていたある日、一人の日本人の母親と話をする機会があったのですが、彼女が「日本では、子供が学校に行くまでは母親が囲って育て、学校に入ると厳しいグループ重視教育が始まる」と言いました。私は「囲って育てる」方に驚きました。グループ重視教育の方は察しがついていたからです。アメリカは子供中心に家族が動きますが、「囲って育つ」とはニュアンスが違います。
子供の叱り方にも違いを感じました。日本のお母さん達は、「周りに迷惑だから」、とか、「恥ずかしいから」と周りを気にして叱っているように思いました。アメリカでは、人に迷惑をかけていたら注意します(叱るのではなく)が、恥ずかしい、という理由で注意することはないですね。

そうそう、とても驚いたことがあります。駐在で日本に赴任している欧米家族とも知り合ったのですが、母親達が、フィリピン人のベビーシッターに子供を預け、生け花、習字、ヨガなどの教室に行っていました。NYでは、シッターに預けるのであれば働くか、ボランティア活動をするかして社会に関わります。その駐在妻達は、私にとって、同じ教育を受けた欧米人の女性として初めて遭遇した人達でした。その当時、私は33歳だったので自分の狭量さでそう判断したのかもしれないけれど、今は、仕事をせず子供を預けてカルチャー教室に通う女性達の気持ちも理解できるかもしれないです。
 
 ー 日本で子供を産まない選択をする女性が増えています。それについてどう思いますか。
 
日本では社会が求める母親の役割/像があると聞きます。外でバリバリと仕事をしてきた女性が母親になると、社会での存在が希薄になったと感じるのでしょう。と同時に、繁殖する機能を使わないことに対して複雑な思いもあるのではないでしょうか。
 
結局は個人の選択です。子供がいないから社会に貢献していないなどと思って欲しくありません。子育ては女性だけでなく、男性の仕事や生活の犠牲をともないます。もし子供がいなかったら私のキャリアも違っていたと思います。

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 ー 二人目を持つか悩んでいたそうですね。
 
私は、自分の子供に十分な注意を払って育てたいと思っていました。子供が小さいうちに二人以上いては、私の注意が分散してしまい子供に申し訳ないと思ったのです。

主人の「The Forgetting」が2001年の9月10日に出版され、9月11日はテレビインタビューやサイン会などが予定されていました。そして9月11日。同時多発テロが起こったのです。本の取材を通してアルツハイマーで家族の記憶を失う人達をずっと追い続け、そしてテロで命が一瞬で失われてしまう儚さを目の当たりにし、命の大切さを思い知ったのです。そして気がつきました。二人目の命をこの世にもたらしたいと迷っていたなら「何を待っているの」ってね。
 
 ー 二番目のお子さん出産後、お仕事はどうされましたか?
 
長男が五歳の時に、私立の保育園で二歳児の子供を担当しました。長男は小さいときは身体が弱かったので、自宅からも近く、半日の勤務体制が私にはぴったりでした。
 
朝定時に起きて仕事の服に着替え外に出る。外での仕事はメリハリがつきます。家事はすればするほど出て来て終わりがなく達成感がありません。外で仕事をすることは精神的にも良いと思い、6年続けましたが、この夏に退職しました。
ニューヨークの母親達は完璧主義です。仕事、子育ても楽な方法を選ぶと手抜きをしたようで罪悪感を感じるのです。両方とも完璧にこなしたくて必死に動いているのに、それでも葛藤を感じてしまう。子供と十分な時間がとれているのだろうか、仕事は、自分の得意分野の枠を飛び出して挑戦しなければいけないのでは、とか。常に自問自答です。
心身とも疲れ体調を崩しがちなり、仕事からは少し離れることにしました。
 
 ー 子育てで一番のチャレンジは何だとお考えですか?
 
精神的、身体的に常に変る子供達と彼らを取り巻く環境に対応することかな。例えば、ニューヨークでは親が子供を一人で歩かせません。長男は今12歳ですが、同級生で、一人で地下鉄に乗せない、歩かせない親はまだいます。親が子供に同行する年月が長く、親は常に点を移動し時間に追われる。やっと一人で行動する年になると思春期、そして大学進学です。大学進学前に、子供はボランティアや、海外に留学して地元コミュニティへ貢献するような活動をしますが、そのサポートをするために、家庭は子供中心のライフスタイルになります。精神的サポートもどの年代でも重要です。
 
 ー ご長女が大学進学で巣立ったことでの喪失感、離職、更年期を控えているなど、環境と心身的な変化を感じて難しい時にいらっしゃると思います。仕事と子育てを振り返って今モットーとされていることは何でしょう。
 
子育てに対して強くこだわりながらも、仕事は続けて来てよかったと思っています。今、仕事から“休暇”をとっている感じですが、幸い戻りたい時に収入を得られるキャリアを積んできました。やはり自分で収入を得る力を持つことは大切です。
 
おっしゃる通り、女性として心身的な変化を感じています。これまで、常に話している生活をし、移動し、時間に追われてきた。これからは、“聴く”ことを大切にしていきたいですね。
​例えば、今日このインタビューも、「1時から2時半まで」でスケジュールを組み、次に予定を入れていました。でも、あなた(インタビュアーの私)との会話を心から楽しみたいと思ったのです。今、心を落ち着かせてあなたと会話しているうちに、自分を再発見しているように思います。
そして、詩を書き始めています。私は、言葉、文字のもつパワーにいつも魅了されてきました。詩を通しての表現は心を落ち着かせてくれるのです。
​(次回は11月11日に投稿予定です。)

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