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自分の人種だから感じ得ること、できること(前編)

6/7/2016

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ブランディ・メレンデス。
イタリア系アメリカ人の夫と、9歳の長女と6歳の長男とブルックリンで暮らす、生まれもブルックリンという生粋のブルックリナイト。
 
アイビーリーグのブラウン大学を卒業。2年前に、企業のエグゼクティブポジションを去り、職場を教育の現場に移す。
現在はブルックリンにある私立校のコミュニティ/インクルージョンのディレクター。

アフリカ系アメリカ人のブランディが、教育現場にダイバーシティとインクルージョン普及を使命とする話には説得力がある。

ばりばりキャリアウーマンの顔から始まったインタビューは、愛情に溢れた一人のママの素顔へ。
​インタビューを前半と後半に分けてお届けします。

 ー 2007年に、長女を出産した当時の仕事は何でしたか。
 
 IT企業のヒューマンリソーシス(HR)のVPでした。
大学卒業後に就職したその会社は、当時は小規模だったけれど、吸収合併を繰り返し、今では大手IT企業です。
 
 ー 出産前、キャリアと子育てをどう考えていましたか。
 
 私は大学を卒業してすぐの1999年に仕事を始めました。長女を出産したのは2007年、長男を2010年に出産しました。

長女を出産した時は31歳だったので、キャリアウーマンの中では、私は早い時期に出産している方ですよね。でも出産した時は、仕事を始めて8年経っていましたから、HRのスペシャリストの道は築いていました。
多くの女性が、大学卒業後にMBAをとったり、キャリアを積み、ある程度のポジションになってから子供を産むという選択をしますが、私は若いうちに子供を産んだ方が後々楽だろうと漠然と、でも確実にその選択をすることを意識していました。

結婚したのは2006年で、結婚して翌年に出産しました。主人とは、結婚する数年前から交際していましたが、子供が欲しかったので、結婚することにしたのです。そして二番目の子供も間をおかずに産みました。そうすることで、子供が学校行く年になるまで、更に仕事に集中することができました。
 
 ー 仕事している時のチャイルドケアはどうしていましたか?
 
 子供が小さい時はフルタイムのナニーがいました。
 
アメリカでは出産後、12週間の一時的労働不能休暇*(Disability Leave)が適応されます。*雇い主にこの休暇を取っている社員への支払いの義務はない。

私は出産直後に12週間の休暇を全て消化するのではなく、まず6週間を使い、残りの6週間を数ヶ月間の間にパートタイムという形に置き換えて休暇を消化する形にしてもらいました。

三ヶ月間、職場から全く離れしまうよりは、時間を短縮してでも仕事を続ける方が、仕事復帰がしやすいと思いましたし、収入が絶たれることもありません。そういう選択ができたことはラッキーだったと思っています。
 
長男が4歳になって学校に行くようになってから、パートタイムのベビーシッターにお願いしています。子供を学校からピックアップして、私か主人のどちらかが帰宅するまで子供の世話をしてくれています。
​それと私の母が近くに住んでいるので助かっています。ベビーシッターは三時半からお願いしているので、子供が病気で学校に行けない時などは、母が来てくれます。
 ー 2014年に今の仕事に就くまでは残業なども多かったのでは?
 
 企業の中には働く母親の勤務体制に理解を示してくれるところも増えてきたかもしれないですが、企業戦士である限り、母親への特例は適応されないのが実情なのです。それに自分自身の働くことの理念も、働く限りは120%で臨みたい。
 
出産後、赤ちゃんの時に仕事に戻ることに罪悪感がある人が多いと思うけれど、私はなぜか、良い環境できちんとしたケアの元に子供を託していくのであれば、子供が学校に通うようになるまで、自分のキャリアを積むことに集中したいと思っていました。それなので2007年に長女が産まれた時も死にものぐるいで働きました。二年も間をおかずに長男を出産したのも、とにかくキャリアに集中したかったのです。
 
 ー それはなぜでしょう。
 
 私は常に、子供がある程度大きくなった時に、一緒にいれる時間を持てるような仕事をしたいと考えていました。学校に通う頃になった時に、勉強を含めた学校での悩みや、思春期の時にさりげなく側にいてあげたかったのです。
 
 ー そう願っても、なかなかな仕事の環境を替えられない母親達も多いですよね。コーポレート時代から教育の現場に仕事を変えた時のことについて教えてください。
 
 大学で心理学を専攻していた私は、自分の学位と興味を活かせるHRの仕事に就きたいと思っていました。
会社が合併される度に会社の規模は拡大し、私は、中小企業だったその会社のHRを、大手企業のHR部署に発展させました。
会社の成長と共に、私の責任も増え、それがやりがいだったのですが、HRのVPになった時点で、本来、従業員のために働きたいから就いたHRの仕事だったのに、企業側に立つ立場としての役割に時間が取られることが多くなって行きました。
そしてITは24時間週末もない体制です。自宅にいても仕事を続ける感じで、生活に影響が出るようになりました。仕事と私生活を分けることが難しくなったのです。
 
それと、会社内で次のキャリアステップを考えた時に、自分が目指したいステップがもうその会社にはないように思いました。自分がそのステージに到達する前は、会社内での次のステップに魅力を感じ、上を目指してきましたけれど。
会社の私の評価は適切だったし、待遇にも不満はなく、一緒に仕事をする人達も仕事のプロばかりで刺激的でした。
でも会社が大きくなるについて、企業体制の柔軟性も失われて、本来自分がしたいHRの仕事を見つめ直すようになっていきました。
 
企業内HRのプロとしての自分の将来に迷いが生じた頃、ある日、子供を学校に送った時に、校内で校長先生に出くわしました。その時ちょっと彼と立ち話をしたのですが、校長が、「ダイバーシティとインクルージョンでリーダーシップをとる人材を探そうかと思っている」と一言。偶然にも、丁度その頃、教育の現場にそういうポジションが必要なのでは、と私は思っていました。
校長の話を聞いて、自分のHR畑のキャリアが教育の現場で活かされるのでは、と思い、それから数週間経った後、自分からそのポジションに手を挙げました。
 
私は特に信仰心が強い訳ではないけれど、この仕事に就くまでになった経緯にセレンディピティを感じています。(セレンディピティとは、自分が欲しいものに対して自分を能力やスキルをセルフプロモートすれば、自分に返って来る、ということ)。
私は、教育の現場でダイバーシティに関わる仕事があればいいな、と思っていた。でも仕事が忙しくて学校の行事や活動に関わる時間はなかったので、学校がそういうポジションを創ろうとしているのは知らなかった。
偶然、校長と立ち話をしたことがきっかけで、自分から手を挙げた。そして自分が望む仕事が得られた。学校も思わぬところで、私という人材を得た。何か運命的なものを感じます。
 
このポジションになっても忙しいことには代わりはありません。例えば今週と来週は仕事で夜が遅くなります。でも以前のように24時間仕事に臨む体制でいる必要はありません。週末や休暇も子供と一緒にいれるのです。
以前の仕事を続けていたら、子供達との時間はなかなか取れなかったでしょう。(後編に続く)


後編は、6月20日に掲載します
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