![]() シリーズ四回目はシャミーナ・ラオ・ヘラル。 デザイン大学として有名な、ニューヨーク州立ファッション工科大学(FIT)グラフィックデザイン課を卒業後、グラフィックデザインスタジオで、クリエイティブ・ディレクターとして活躍。 インド人の両親を持ち、15歳の長女、11歳次女、夫と4人で、ブルックリンの閑静な住宅街に住む。 適切な言葉を選んでオリジナリティのある考えを伝える表現力と、チャレンジをパワーに変えて行く意志を秘めたシャミーナの、ワークライフバランス・ストーリー。 ー 長女出産前と出産後のお仕事について教えてください。 FIT卒業後、グラフィックデザインオフィスに七年勤め、クリエイティブ・ディレクターのポジションにつきました。デザイナーとしてトップのポジョションでしたし、やりがいもありました。 でも私は、子供を持ったら自分で育てたいと思っていたので、29歳で長女を出産する前から、出産後に自宅で仕事ができる環境を持つためにオフィス内で動いていました。フリーになってからは、そのオフィスがクライアントになり、自宅で仕事をしました。私はフリーのデザイナーとして早くからキャリアを積むことに成功していましたが、仕事の領域を更に広げるために、次女が6歳の時に違うデザインオフィスに週四日で勤め、二年半後にまたフリーランスに戻りました。 ー フリーランスに戻ったのはなぜでしょう 週一日は子供と一緒にいれると思って受けた条件でしたが、終わらない仕事を自宅に持って返ってすることになり、時間的拘束はフルで仕事をしているのと変わりませんでした。また、その時は、フルタイムのベビーシッターを雇っていましたが、「やっぱり子供は自分で育てたい」、という想いが自分は強いことに気がつきました。 ー 子供が大きくなってから仕事に戻る、という選択もあったかと思います。なぜ仕事を続けよう、と思ったのでしょう。 三つ理由があります。一つは、デザインという仕事は流行があるので、現場から長く離れてしまうと自分のスキルやデザインがマーケットのニーズにマッチしなくなります。二つ目は、教育を受け、仕事をし、社会に関わってきた人間として、社会の一員として貢献したい、ということ。三つ目は収入を得る必要がある、ということです。幸い、フリーとして仕事が途絶えることがなく、その点では光栄であり運がよかったですね。 ー ということは、フリーランスでも、仕事で忙しい毎日には、変わりありませんよね。 自宅で仕事をしていれば、時間の調整ができます。子供が小さい時は、子供が寝ている間に仕事をし、子供が学校に行くようになってからは、その間に仕事をする。時間が調整できるので、子供の遠足が入れば、学校のヘルプで遠足に同行したし、発表会や参観日も出席し、学校に迎えに行くことができました。 ![]() ー ご自分の幼少から思春期時代に、お父様のお仕事で転勤が多かったそうですね。その経験はご自分の子育てにどのような影響がありますか? 私達家族は、父の仕事の関係で三年ごとに住む場所が変りました。子供にとって三年ごとに新しい環境に対応するというのはストレスです。でも両親は、子供達にとって家庭が拠り所になるように努力をしていました。インドの親というと保守的な印象があるかと思いますが、私の両親は、子供個人の個性を尊重してくれて、私達三人姉妹が興味あることを応援してくれました。 父の転勤先がケニヤになった時に、ケニヤのインターナショナルスクールに通いました。それまでは転勤先の現地校だったのですが、インターには文化背景が違う子供達が、流動的ライフスタイルを持つという共通項で集まっています。新しい子供が来てもすぐ受け入れてくれる環境です。その学校での生活が学生時代の中で一番充実した日々でした。 引っ越しが多かったのは大変だったけれども、その経験のお陰で視野が広がり、多様な考え方の人達との交流を可能にしました。三年ごとに引っ越す先では、貧困を日常的に目の当たりにすることもありました。私は、恵まれた環境 —温かい家庭で、衣食住に困らず、学校に行ける— で育っている自分の子供達に、人に対しても思いやりのある良い人になってほしいと思っています。 子供達に色々なものを見せてあげたくて、毎年長期の家族旅行に出かけます。またダイバーシティを享受できるニューヨークというこの街で育つことで、グローバルな考えを持った大人になってもらいたいと思います。 ー 子供が産まれてから、自分の選択で後悔していることは何でしょう。 早いうちに、ヘルプを受け入れていればよかった、と思っています。フリーは、フレキシブルな反面、依頼された仕事は断りにくく、仕事の量を調節するのが難しいのです。子供が小さい時は、子供が寝ている間に仕事をして、夜中二時まで仕事をすることも多々ありました。子供が学校に行くようになると、まとまった時間に仕事が出来て効率は上がりますが、と同時に仕事の量は増え、今度はずっと家の中にいることになりました。 私は、子供を人に預けることに罪悪感があり、子供を持ってから、週四日のオフィス勤務を二年間半した以外は、子育ても仕事も全部自分でしてきました。もちろん主人はとても協力的です。家事も手伝ってくれるし子供達とも遊んでくれます。でも、もし学校からの子供のピックアップをシッターにお願いしていたら、その間に仕事も進められるし、仕事が片付けば夕食の準備もできる。でもそれをしなかったから、仕事を中断し、子供を迎えに行き、帰ったら夕食の準備で、残った仕事は、夕食の後にすることになる。持病の腰痛も、シッターに子供を見てもらって、その間にセラピーやヨガなどのクラスを受けていたら、悪化しなかったかもしれない。 長女が13歳の時に、燃え尽きた感を強く感じ、自分をみつめ直しました。 ー 自分をみつめ直すために、何をしたのでしょう。 心身を休めるために、以前から興味があったヨガを始めました。ヨガの瞑想と呼吸法が心を落ち着かせ、それによって前向きな気持ちになれる自分をみつけました。その効果を実感した私は、インストラクター資格コースに八ヶ月通って資格をとりました。今は週に一度、思春期の子供達に教えるクラスを持っています。他には代行講師として、アート大学等でもヨガを教えています。 同じ時期に、ニューヨーク市のアート教員の資格も得ました。私はグラフィックデザインが本業なので、アート教員は代行としてですが、公立中学で一学期教えるなどしました。 『人の役に立てている』という気持ちが、自分を成長させ、気持ちを豊かにしてくれていると思います。 ![]() ー 日本では、定時で帰る母親に対して不公平感を感じる社員がいるといいます。それに対してどう思われますか? 出産前に勤めていたデザインスタジオの男性上司から、「あなたを昇進させたいけれども、女性は結婚したら子供を産んで辞めたり時短にするから昇進は見送りたい」と言われました。もう10年以上前なので、今はこんな発言はできないと思いますが、その時は、これは雇う側の本音なのだろうか、と考えたものです。実際、私は産まれたばかりの子供を人に預ける気はなかったので、彼の言う通り退職しましたし、デザイナーは特に肩書きで仕事はしないので、スタジオを辞めてフリーになったことに後悔は全くありません。 この問題は様々なレイヤーがあり、一つの解決策がある訳ではありません。アメリカでも、有給育児休暇システムがない組織は、Disability Leave (ディサビリティ・リーブ — 一時労働不能休暇。Disabilityは障害/ハンディキャップのこと)が、適応されます。子供は未来のはずです。出産を障害と見なす社会の意識変革や、組織内、社会に子育て中の母親をサポートするシステムが整わず、女性が子供を産まない選択をしたら、人口は減ってしまいます。 ー 仕事、子育て、ヨガ講師など、お忙しい毎日を乗り切るモットーを教えてください。 何歳になっても、人は学び成長していく選択をとれる、ということでしょうか。置かれている状況によっては、その選択にすぐ取りかかれないかもしれないし、完了するまで時間がかかるかもしれない。でも、「これで終わり」、「行き詰まった」と諦めず、自分の人生のギアチェンジをしていけると思っています。 長女が13歳の時に、ヨガ講師の資格をとりたいことを、家族皆に一席をもって伝えました。「マム(mom – 母)は、新たなことにチャレンジしたいので、皆で協力しあって、自分達で出来ることは率先してやって欲しい」と伝えました。娘達は、40代になってから、新たなことにチャレンジしたい、という私をとても好意的に受け入れてくれました。 あれから二年、ヨガ講師、アート教員の資格も取り、そして今、私はドゥーラ(Doubla)の資格習得のために仕事の合間に講習を受けています。ドゥーラとは、出産前、出産中そして出産後の母親達への精神的、身体的サポートをするプロフェッショナルのことを言います。出産や子育ての情報源、サポートとなり母親の不安を軽減するお手伝いをします。出産後も授乳や子育ての相談や情報提供、また母親が、子育てが出来る精神状態にいるためのサポートをします。 出産という掛け替えのない人生のイベントを迎える女性達の力になりたいと思っているのです。二人の娘達も、新たなチャレンジに向かい合う私を応援してくれています。 (次回のインタビューはNY時間の10月10日ポスティングします) ![]() シリーズ三回目は、アリサ・ラモント。 中西部の名門校、カールトン・カレッジを卒業後、大手コンサルティング会社、アクセンチュアでコンサルタントとして高い評価を得ながら、長男の出産に合わせて退職。長男12歳の時に、コロンビア大学でファンドレイジング・マネジメントの修士号を習得。その後、ファンドレイジングのコンサルティング会社を立ち上げる。 15歳の長男、13歳長女、10歳次女、6歳次男の4人の子供の母親。アメリカ人の父親とタイ人の母親をもち、人当たりが柔らかく周囲を安心させる雰囲気を持つ。 アメリカで生まれながらアジア文化の影響を強く受けて育ったアリサのワークライフバランス・ストーリー。 ー 出産前の仕事と、その仕事を辞めた理由について聞かせて下さい。 コンサルティング会社、アクセンチュア(Accenture)に6年勤め、長男を妊娠した時はマネージャーで、パートナートラック(パートナーに昇格する過程)にいました。J.P.モルガンやUPSのようなグローバル企業がクライアントでした。 6ヶ月間の有給育児休暇の間に、仕事復帰を念頭において保育園を見学に行き、ベビーシッターの面接などしていました。 ある日、自宅近くの保育園に見学に行って預けられている子供達を見ていた時、「掛け替えのないこの時期を人に託したくない」、という想いが沸々と湧き出てきました。育児休暇が明けた後、二年間は会社に籍がありましたが、二年後に正式にアクセンチュアを退職しました。自分の意志で出した答えとは言え、正式退職した後の最初の一年は複雑な心境でした。いわゆる、『やりがいがある仕事』だったし、キャリアウーマンとしての自分は手放した気がしたのです。 ー あなたは置かれた環境の中で120%で臨むことを信条とされていているとのこと。では120%の子育てとは、あなたにとって何でしょうか? 私の母はタイ人です。母はタイ流に、穏やかで、情の厚い大人に育つよう私達4人の兄弟を育て、私も自分の子供達をそう育てたい、という想いがありました。 それと、私はアメリカの中西部*出身ですが、中西部の人達は、控えめで地に足がついている感があります。子供達にはそういう地に足を付けた人になってもらいたい、と思っていました。*中西部の代表的な都市はシカゴやミネアポリスなど。 そういう想いから、子供達をシッターに任すのではなく、赤ちゃんの時はテレビやビデオは見せず、読み聞かせや歌を唱ったり、ミュージックトギャザー(Music Together)のような親子参加クラスをとったり、母と子の直接の触れ合いを大切にしました。長男が二歳の時に長女が産まれ、その3年後に次女も産まれ、自然に120%で子育てに臨むことになりましたけれど(笑)。 ー お母さまからタイ文化の影響を強く受けたようですね。 母は、父と出会い、35歳の時にアメリカに来ました。二人とも大学の教授で、新居を構えたのは、ミネソタ州の小さな町でした。その頃、その町でアジア人は私達家族しかいない、と言って良いほど白人がマジョリティでした。私の外見はあまりアジア人っぽくないのですが、弟二人はアジア人が強く出ています。そのせいで弟二人はいじめに合いましたし、母の英語の発音をからかう人達もいました。 母は、家族の絆を強くすること、そして家庭内でタイ文化を守るために、タイにいる家族のように私達を育てました。変な話、私はタイに住むタイ人より伝統的なタイ人かもしれないですね(笑)。でも思春期は自分のアイデンティティについて悩みましたよ。私はアメリカで産まれている。でも見た目はアジア人、自分もアジア人だと思っている。大学でアジア人学生グループに入ったりと、色々模索しました。 ティーンエージャーだったある夏、ボストンに住む叔父のところに滞在した時に、スカウトされて短期間モデルの仕事をしたことがありました。その時に「自分の存在は、ユニークなのかもしれない」って思えました。外見からですが、それがきっかけになって、次第に楽になって行きました。 ![]() ー 2008年にコロンビア大学の修士号課程を始められました。専攻はMS(Master of Science)のファンドレイジング・マネジメント、と、出産前のコンサルタントとは職種が違いますね。 アクセンチュアに勤める前に、母校の大学でファンドレイジングキャンペーンの開発を担当していました。私の仕事振りが大学の理事に認められ、そして私がアジア系アメリカ人でアジア文化の理解があることから、タイや日本マーケットの寄付金ドナーの開発も担当しました。その時の経験が、大学院の専攻を選ぶ時の大きなきっかけになりました。 今、自分のコンサルティング会社(Bamboo Fundraising Consultants)で、NPOの戦略的成長のお手伝いをしています。自分にはこの仕事が天職だと思っていて、クライアントのプロジェクトに関わる度に、充実感のある喜びを得ています。 ー 大学院に戻って勉強し直そう、と思った動機は何ですか? 長女が6歳の時に、「私の将来の夢は、母親になること」と言ったのです。自分の娘達には、母親業の枠を超えて、向上心、探究心を持ち、どんな環境でも自分の道を開拓する大人になってもらいたい。であれば、自分がその姿を子供達に見せたい、と思ったのです。 次女が幼稚園の時に大学院を始めたのですが、すぐに次男が産まれたので、修士号習得に4年かかりました。 ー 子供を持ってから後悔していることを一つ挙げるとしたら何でしょう。 私は、子供の頃バイオリンを習っていたのですが、練習が嫌で仕方なかった。でも親は辞めさせてくれず、20年間続けました。でも20年間続けたおかげで、地元のオーケストラや、教会のチャンバーで演奏する機会を得るまでになりました。達成感も生まれたし、一生のスキルになりました。 子供達には色々な習い事をさせましたが長続きしません。私は、嫌いなことを強制的にさせられることがどれほど嫌か理解しているので、自分の子供達に無理強いしませんでした。でも嫌いなことも持続すればスキルになる、ということを子供達に教えればよかったと感じています。 ー 日本では、母親が定時にオフィスを出ることを不公平と感じる社員がいると聞きます。それに対して何かアドバイスはありますか? 経験がないことに理解を求めるのは難しい、というのが実情だと思います。 私がアクセンチュアにいる頃、四歳と二歳の子供がいる同僚がいました。定時で退社する彼女に対し、毎晩残業している他の同僚達は、不公平感を持っていたし、彼女のゴシップ話をする人もいました。 でも自分が母親になって判りました。オフィスにいないから仕事をしてないのではなく、自宅に着いた時点で、母親という仕事が加わるのです。子供に夕食をあたえ、お風呂に入れて、寝かしつける。その間にオフィスの仕事のメールをチェックし対応する。彼女は真摯に一生懸命、帰宅してからもくつろぐ間もなく働いていたのです。 ![]() ー 母親になって、一番の難しさは何でしょう? 子供の成長において、どの時期も違った難しさがある、ということでしょうか。私の場合、4人いますので、授乳とおむつ替えの日々が暫く続きましたが、その間でも、一人ずつが成長していく段階で、新たなチャレンジに遭遇します。私は、自分の子供が一番手強いクライアントだと思っているんです。子供を育てることで、親はもの凄く成長させられる。そしてたくましく生きる力も与えてくれます。 ー 4人の子供の母親、起業家、そして一家の稼ぎ頭として多忙な毎日を乗り切るモットーを教えてください。 「This too shall pass—良い時も、悪い時もいずれは過ぎ去る」、ペルシアの詩に由来するということわざです。何事にも永遠はないことを受け入れて、良い時はそれに甘えず、悪い時は、いずれ終わることを信じて押し進む。自分がいる瞬間を精一杯生きる、ということだと思います。 次回のインタビューは9月10日に掲載します。
![]() シリーズ二回目は、ジャクリーン・ストラウス。 14歳の長女と10歳の長男の母親。 ニュージャージー州立大学、ラトガー大学を卒業後、フィルム制作のプロデューサーとして活躍。歯に衣着せないシャキシャキとした口調は、NY地区出身ならでは。インタビューの質問に率直に答えるその姿から、「Give-与える」ことを恐れない懐の深さを感じる。 ご主人と4人で、ブルックリン美術館の目の前にある、歴史あるアールデコ調アパートメントビルに住む。 ー 出産前のお仕事と今のお仕事について聞かせてください。 出産前はテレビ番組、ミュージックビデオ等、フィルム制作プロデュースの仕事をしていました。 今は、LEGO欧米サイトのオンラインショップのテスティングをしています。朝8時から夕方4時まで自宅勤務です。ただ基本的に締め切りを守れば、子供の学校行事にも参加するし、子供を医者に連れて行く時などは家を開けます。こういうフレックス体制の仕事を出産前から探していました。 ー 子供を持つ決断をしたのはなぜでしょう。 20代の半ばから、子供は欲しいと思っていました。結婚をして子供は持たない、という選択肢は私にはなく、30代前半が自分にとって子供を持つ『時期』でした。 ー 30代は、業界でのキャリアを積む真っ只中で、出産後もプロデューサーの仕事を続ける選択もあったと思います。そのお仕事を辞めた理由を聞かせてください。 その当時、一週間の平均勤務時間は60から80時間で、週末も仕事をしていました。でも子供を持ったら、そういう働き方はしたくないと漠然と考えていました。 「出産後にこの仕事はしない」と思った一番のきっかけは、私の上司が三人目の子供を妊娠中に、夜11時にロケ現場で仕事をしている姿を見た時でした。夜遅いのはその日に限ったことではないのに、です。ということは、彼女の子供達はベビーシッターが育てているようなもの。 それを契機に、フレックスで出来る仕事を探し始めて、主人と交際を始めた頃から、企業のウェブサイト/ソフトウェアのテスティングの仕事にシフトしていきました。 ー フィルム制作からソフトウェア・テスティングへと職種が異なりますが、テスティングのスキルはあったのですか? 仕事の時間を減らしたいな、と考え始めていた頃、友人が起業して、その会社のサイトのテスターにならないか、と声をかけられたのがきっかけでした。 私には、プロデュースする、というスキルがあります。プロデュースとは「生み出すこと」ですよね。私は、この機会をきっかけに、「子育てと仕事を両立させるためのフレックスな仕事に就く」というゴールに向かって、ソフトウェア・テスターとしての自分をプロデュースしたのです。 ![]() ー ご自分が子供だった頃、お母様がデザイナーとしてフルで働いていたそうですね。その経験は、出産後のご自分の仕事観に影響していますか? 母は成功していましたし、毎日夜遅くまで仕事をしていて、ストレスを感じているようでした。私と姉と過ごす時間はあまりありませんでした。確かにその経験は、自分の子供に同じ思いをさせたくはない、と思ったきっかけだったのかもしれません。 でも母は、同時に働くこと、稼ぐことの大切さも教えてくれたように思います。働くことは自立でもあるからです。ですから、私にとって、母親になったら仕事を辞める、というオプションはありませんでした。それと正直な話、私は子育てだけで満足できる人ではありません。自分の世界が子供だけになってしまうのは、私にとっては退屈そうなのです。 ー 仕事中の子供の世話はどうされていましたか? 二人目の子供が小学校に行くまでは、フルタイムのベビーシッターがいました。学校が終わって習い事が始まると、一人はシッターが、一人は私が連れて行きました。二人目の子供が小学校に入ってからは、学校からピックアップする時間帯からお願いしていました。幸い過去10年間同じシッターで、子供達ももの凄く慕っています。この9月に長男が中学生になり、そうなると学校への送迎が必要なくなります。寂しいですが、この夏がエマ(シッター)との最後の夏です。 ー 自宅勤務のジレンマや難しさもあるかと思います。リフレッシュのために心がけていることは何ですか? 綺麗にしていたいですね。肌の手入れも気をつけているし、ピラティスも定期的に行っています。若作りではなく、見た目も考えも若くいたいと思っています。話題の店やファッション、美味しいレストラン等、外にアンテナを貼っています。私の母がいつまでも綺麗でその姿は素敵だった。80歳の今でもきっちとしていますよ。 公園に行くと、子供が小さいお母さん達の中には、見た目を全く構わないような人がいます。きっと子供を置いて自分のことをするのが申し訳ないからでしょうね。良いじゃないですか。子供をTVの前に座らせて子供番組を見せて、自分はゆっくりお風呂に入って気分さっぱりする。そういう気分転換は大切です。 ー 日本では、定時で帰る母親に対して不公平感を感じる社員やスタッフがいると聞きます。それに対してどう思われますか。 私は自分に子供がいない時に、子供が理由で早く帰る女性達に嫉妬のようなものを感じていました。不公平感ではありません。彼女達が早く帰る正当性が自分には判らなかった。子供を持った経験がないのですから当り前ですよね。 母親自身も、自分や家族のニーズに合った環境を自分から探して就くことも大切だと思います。仕事に就く前に給与や勤務体制を徹底的に確認しておくのです。 ハイパワーポジションに就きたければ、そしてシッターを長時間雇えるお給料をもらっているならば、仕事に没頭する環境を整える。もし例えば、企業や弁護士事務所で、残業日を減らすのであれば、重役やパートナーの道を選ばないことになるかもしれない。でも今は、組織もダイバーシティを勧めているので、母親が組織のキャリア路線からはずれないような施設や仕組み/制度があるところも増えています。 ー 母親になってからの自分の選択で、後悔があるとすれば何でしょうか。
下の子がこの9月から中学生になり、ますます自立するようになります。多少時間帯が不規則になっても、自分がしたい仕事を積極的に選べる環境になりますが、では、何がしたいのか、というと、今はそれが見えていません。 LEGOサイトのテスターの仕事の条件が良いので、この環境に甘えてしまったと感じています。もちろん、この仕事を続けていってもいいのです。でもこの仕事は、子育てと仕事を両立可能にするために選んだ仕事。これから自分の好きなことに向けてチャレンジしていきたい気持ちがあるのです。もう少し早い時点で、自分のこれからのキャリアのために、何がしたいのかを問いつめ、行動に移しておけばよかったと思っています。 ー 母親になって一番の試練は何でしょう。 何をしている時でも、「こんなことをしていていいのだろうか」という思いがあることでしょうか。子供と遊んでいる時は、「もっと仕事に費やした方がいいのでは」と思い、仕事が忙しくなると「子供に申し訳なく思う」。その時の自分を認められないのです。今は、瞬間瞬間を大切に、その瞬間に生きよう、と自分に言い聞かせています。
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