![]() 2019年も明けた。 2018年は、早く終わって欲しかった。だから夜もいつも通りに寝た。わざわざ12時まで起きてやっていたくはなかった。 目が覚めて、キッチンに降りて、大根の煮付けとキンピラを作って家族が起きてくるのを待っていた。主人が、「犬をドッグパークまで散歩に連れてくよ」というので、「今年からは思い腰を上げよう」と誓った私は、まだ寝てる子供達を置いてついていくことにした。 ブルックリン美術館の前を通り、ブルックリンボタニックガーデンの隣にあるドッグパークへ。行きしな、子供達が小さかったことを思い出した。雨が降ると良く連れて行っていたブルックリン美術館。確か4階ぐらいの絵画の部屋が静かで、まだ長女だけだった頃、雨の日に二人きりで行く美術館が私は大好きだった。きっと娘より自分が楽しんだ。隣の植物園へは、ママ友家族と、時々は、私と子供達だけで、それはそれは良く行った。別に花を見るわけでなく、平日の空いている園内は、まるで貸切パークのようで、子供達は駆け回り、転げまわり、長男にいたっては、転げまわりすぎて気分が悪くなるぐらいはしゃいでいた。夏にはキャンプに行かせ、トマトやきゅうりを植えてたなぁ(多分)。 ドッグパークに到着。その隣にある遊具を右手に犬がいっぱいいるエリアに。その遊具を通り過ぎる時も、「ここのジャングルジムで豆ができるぐらいモンキーバーしてたなぁ、子供達」と感傷的になってしまう。 家に戻り、御節を食べて眠くなってきた頃、主人が、「今日は暖かいからプロスペクトパークに行こう」と。普段なら「えー(面倒)」と断るところだが、思い腰を上げよう、と決意したばかりなので行くことにした。大学から休みで戻っている娘も行くという。明日から学校が始まる高校2年生の息子は、休み前半でかなりゲームに時間を費やしてしまい、宿題が終わっていないらしく行かない。 三人でプロスペクトパークへ。暖かくなると、「外でなきゃ損!」と言わんばかりにアメリカ人って外に出るよなぁ、と思いながら、ピクニックハウスを横目に中へ。 子供連れも沢山いた。子供とサッカーしているお父さんの横で電話チェックしているお母さん。子供がどんぐりを口に入れた!と、焦るお父さんを遠目に見ているお母さん。そしてまた頭をよぎる子供達が小さい頃のシーン。スケートリンクに向かう途中に差し掛かった道では、息子が13歳の時、学校から一人で太陽が沈んだ時間にスケートリンクに向かい、細い道を通ったので迷った話を思い出した。その話を主人と娘にしたら、二人ともよく覚えていた。それぞれ「どうしてわざわざ細い道を選んで一人で行くの!でも無事でよかった」と安堵したんだろうな。そうこうしていたら見覚えのある木に出くわした。「この木って、あんた子供の時に弟と登ってた木だよね!」と言ったら「そう」。二人は木登りが大好きで猿のように登っていた。そしてメドーでは、4家族ぐらいが子供達も交えてフリスビーをしていた。そのシーンを見ていて突如思い出した。 「私は、恰好が良くて、仕事もバリバリしてそうで、頭が良さそうな家族と仲良くできるのだろうか」と、パークスロープに越して来た時に思っていた。19年前。娘はまだ生まれたばかりだった。「この人達と世間話できるのかなぁ」とか。何となく、そういう光景に、自分は憧れのアメリカ生活を重ねていたのかなぁ、と今になると思う。 私の先を歩く娘は大学生になった。西日がそろそろ夕方になるよ、と言いたげに輝いている。主人が、「4マイル歩いたな」と言っている。朝のドッグパークと合わせたら6マイルだそうだ。今晩はよく寝れそうだ。犬も。 皆様にとって2019年が良い年になりますように! ![]() ジュリアの作品を初めて見たのは、二年近く前に自宅兼スタジオを訪れた時。 暖炉の前に、無造作に床に置かれている作品群は、巨大ハリネズミが白いプラスターで覆われたようだった。思わず、手が伸びてしまった。「触ってみて」とジュリア。 触れてみると、どこか骨の表面を撫ぜているような錯覚に陥った。父の一周忌を終えたばかりの私は、骨の感触が何となくまだ手に残っていた。ジュリアに言うと、「このテキスチャーに私も骨を意識したの。私も最近父を亡くしたのよ」。なんて偶然。 割り箸のような木の棒と、小さい子供がお風呂に浮かべるようなプラスティックのボールがワイヤーで複雑に絡み合っている。その絡み合い方には何のパターンもない。放っておいたら、その絡み合いで床が埋まってしまいそう。何だか宮崎映画に出てきそう,な。それを、真っ白なシルク石膏が覆う。 私は、シルク石膏のその白さが凄く気になった。真っ白で、日の光で色が変った。西日が当たれば暖かみで流れるように見えるし、室内の照明があたっているところは、青白く光り、影もつくる。 この真っ白で自由変化な作品は、去年、ルシアントテラスギャラリーに展示された。 その時、ジュリアは、「ルシアントから、『絡まり合った中を出してみたら』と言われているの」と言っていた。 2016年6月2日、チェルシーのウィンストンワチターギャラリーで始まった展示『2016 喉からの叫び』ー 2016 Scream in My Throat ーシリーズは、絡み合った中身が、シルク石膏を突き破っている。 私が、今回の作品の中で、一番好きだったのはこれ。石膏が抑えきれずに、覗いている中身は、円形プラスティック板が一枚突き出し、白い玉と針金が散らばってる。 ジュリアに、「あれ、好きだわ。抑えきれない感情を、石膏が繊細に覆ってる」と言うと、「繊細? 私は繊細だと思ったことがなかった。あれは、昨日まで私が格闘していた作品よ。本当に繊細に感じるの?」とジュリア。私、「うん」。一緒にいった友人も、「日本の雪景色を思い出すわ」と、ジュリアに言う。判る気がする。白いから雪景色に繋げたわけじゃない。その作品は、白い石膏からしんしんとした静けさを感じるのだ。 これぞアートの醍醐味。見る人で感じ方も違う。コミュニケートしてくるのをどう受け止めるのは、観ている人次第。 ジュリアの作品、手元に置きたい。でも、今のところ、手が届かないけど。 7月29日まで展示されているので、行ってみてください! http://newyork.winstonwachter.com/artists/julia-von-eichel/ 5月21日、True Voicesとして第一回目の、異文化コミュニケーションの講座を茅ヶ崎で開催。
”異文化コミュニケーション”を”英会話”と区別して説明するのは、なかなか難しい。 「英会話を習っても実際の場面では、なかなか話せない」という方、逆に「英語は話せるので大丈夫のはずなんだけど」いう方。 でも、20年強、NYで仕事をし、子育てもして、という生活を経てきて、異文化コミュニケーションを理解した上での英語会話の大切さを痛感していた私は、自らの体験を参加者の皆さまと共有し、コミュニケーション文化の違いを説明し、ロールプレイで実践というプログラムを作成した。 今回の講座には、10代から60代の方達が参加し、それぞれ英語会話に対する思いと葛藤を共有しながら、生活の場面で話せる、カジュアルなシーンで声が出せる英語を体験していただいた。 皆さん、とっても熱心で、率直な意見も飛び交い、喜んでいただけている表情を拝見して、私はとても感動。ご参加いただいた皆さま、本当にありがとうございました! 5月28日は、原宿Smile Shower 358主催〈自分の世界を広げよう〉シリーズ、第一回目のトークイベントとして、異文化コミュニケーション講座、『実感できた!英語コミュニケーション』を行います。若干席の余裕がありますので、ご興味のある方、Eventページよりご登録ください*! *お申し込みが多い場合は、先着とさせていただいます。ご了承くださいませ。 先週、友人から、「『Daughters of the Samurai』の著者の講演があるから行く?」とお誘いが来た。実は、まだ本を読んでなかったが、興味があるのでお誘いに乗った。
明治維新の頃、「日本女性にも教育を。だから調べて来てね」というミッションを与えられて、5人の士族の娘達が選ばれてアメリカに渡った実話。何とそのうちの一人、津田梅子は、まだ6歳! 6歳の女の子が親元離れて、それも船で、アメリカに渡るなんて、とっても考えられない。5人のうち2人は、婚期やホームシックが酷くてすぐ日本に戻ったらしいが、残る三人は、10年滞在した。津田梅子は、日本語を忘れてしまうほど。他の二人は、かろうじて覚えていたらしいが、それでも明治時代に米国帰りの彼女達の苦労はすごかったんだろうなぁ。 著者、ジャニス・ニムラさんは講演を終えて質疑応答になった。 私は、どのQ&Aの時間でも、アメリカ人の質問を聞きながら、質問者の方に感心してしまうが、今回もそう。 「あなたが映画監督だったら、誰を主役にしますか?」、「先に帰った二人のその後は調べてるの?」、「捨松って変った名前だけど、どういう意味なの?」、「日本でも調査したの?」、「僕も本を書くけど、あなたの今回のリサーチの一番の苦労点は?」等など。時間があったら全員質問していただろう。 すごいな、どうしてそこに気がついたんだろう、気になったんだろう、と思うのもあるし、そんな質問してもね〜、みたいのもある。でもアメリカ人にとって、質問は「興味があって、もっと知りたいから」する。突っ込みではないのだ。だから「こんな質問しちゃった..。」何て気後れはなし。 でも質問するのって、話を、何となく聞いていたらできないから、一語一語が頭に刻まれるんだろうなぁ。 なので最近、私はメモを取るようにして、「聞いてるつもりが、流れちゃってる」というのを少なくするよう心がけています。今さら、でしょうか‥。 ニューヨークはいつもエネルギッシュで活力に満ちあふれている。道歩く人達も『自分が物語の主人公』的に堂々と大股でスマホみながら歩いてる。
大雪で雪が積もって、ゴミの回収が10日ほど来ないのも、地下鉄が当てにならないのもご愛嬌。インフラアップデートがされてない、でこぼこ道も「世界一経済大国の最大都市の道なんだよなぁ」、と思いながら、これで機能しているところが凄いよなぁと逆に感心したりする。 でも‥、久しぶりに郵便局に行って、なおざりな公共サービスを利用した時、ニューヨークの表の顔とそうでない顔のギャップを久々に感じた。 窓口が5つほどあるエリア郵便局に行くとしよう。5つの窓口のうち、スタッフがいるのは運よくて3つ。そしてスタッフはテキパキ動かない。日本の郵便局で一人のスタッフが5人のカスタマーをさばく時間を、多分一人に費やしている。なのでいつ行っても長蛇の列で、まあ一時間は待つことを覚悟しておいた方が良い。 こんな感じだから、郵便局に行くのを極力避けていた。荷物配送ぐらいなら民間の配送センターみたいなところが、郵便局の集荷もしてくれる。切手もそういうところで売っている。 ところが先日私書箱の申込みをしようと、オンラインで用紙に書き込み、「よかった〜、郵便局に行かないで済んだ!と思って、『申込をする』をクリックしたところ、「番号と鍵は郵便局へ」というメッセージ! あー、郵便局行き、免れなかった。 仕方ないので行った。案の定、長蛇の列。一時間ほど並んで、ようやく自分の番になった。空いた窓口のスタッフが、「ネクスト!(次!)」とシャウトしている。「お次の方どうぞ」ではないのだ。でも、こんなことではもうイラっとも来ない。 「私書箱の鍵取りに来たんだけど」と告げると、「Go to window 5ー命令形も直訳すると”窓口5番に行け”」。5番窓口は、さっきから一人のカスタマーに30分も費やしている一番避けたい窓口。私は、横から、「鍵、取りにきたんだけど」とボソっと言ったところ、「あんた、列に並ばなきゃダメよ」。「え、もう一時間も並んだわよ。1番窓口が5番に行けっていうから」と、イライラ感情は表に出さず、事実を淡々と述べると、「あー、あのスタッフやり方判らないのね。じゃあ、このお客さんの後するから待ってなさい」と、そこでまた待つことになる。 やっと私の番になった。それなのに、彼女はチップス食べたり、後ろで荷物整理しているスタッフに「これ美味しいわよ」なんて世間話している。後ろを振り返り喋る度に手がとまる。「そういうことは、私を終わらせてからやればいいじゃない」とイラっとは来るが我慢。あげくの果てに、私の後ろにいた若い男の子が荷物を取りに来たと判ると、「あ、私書箱の荷物ね。今見に行ってあげる」と、私の手続きを置いて、重い腰をあげて(本当に腰が重い)、その荷物を探しに行った。5分後に戻り、「ごめん。みつからないわ」だ。 私を終わらせてから対処すればいいじゃないか。でもそれも、こっちの常識。彼女は、「私は安給料で一生懸命やってるのよ。チップスだってドリンクだって飲みたいわよ。それに親切心で、若い子の荷物も探しに行ってるしマルチだわ」と、思ってるだろう。 こんな時でも、カスタマーは怒ってはいけない。怒ったところで何も生み出さないからだ。怒ってもサービスは改善するわけではない。「マネージャーを出せ」なんて言ったら、「What are you talking about? 何言ってんの?」と鼻で笑われて終わりだ。 それどころか、スタッフを怒らせて喧嘩でもなったら、また時間がとられるし、悪いサービスが更に悪くなって、書類を提出してくれるのか逆に不安になってしまう。 こっちは冷静沈着。笑顔をたやさず、ちょっと冗談も言ったりして。 やっと鍵を渡してくれた時、「あんたの私書箱きれいに拭いといたわ」と笑顔で言ってくれた彼女。そう私の我慢と忍耐が、彼女ができる限りのサービスを引き出したわけです。「サンキュー」と、私が郵便局を去ろうとした時、長時間立ちっぱなしで腰が痛い。私書箱の鍵をもらうだけで、一時間半費やした。 でもそういう時に、ニューヨークの素顔を見る気もする。だって郵便局は地下鉄と同様、頻度は違えど利用せざるを得ない施設。皆平等にその列にならぶ。 郵便局の職員も毎日一生懸命生活している市民。物価高のニューヨーク、地価が上がりっぱなしのニューヨークで、彼らは子供を学校に行かせ、遠くから通っているんだろう。窓口に置かれている彼/彼女達の子供の写真をみると、こういう想像を勝手してしまいたくなる。 去年、娘がエッセイコンテストに申込んだ時、その日の消印があることが条件だった。急いで郵便局に行き長蛇の列を経て、ようやく順番が回ってきた時は、午後5時を過ぎていた。もうその日の消印は過ぎてしまった。 その窓口の担当者は、「今日の日付を押しておくよ。君が有名なライターになったら、今日のことを書いておくれ」と、冗談も交えながら印を押してくれた。この言葉は、娘にとって大きく響いたに違いない。 ニューヨークに来たら、郵便局から絵はがきを出してみてください。 生活するニューヨーカーの姿を垣間みれると思います。 私はセラピストに週に一度通っている。始めたのは一ヶ月前から。
知り合いのセラピストの友人に、「今、あなたはトランジションの時期だから心身を整える意味で、定期的に通うことを勧めるわ」、と言われたのがきっかけ。トランジションー変化、変わり目。そう、私は『思春期』ならぬ『思秋期』にいる。確かに変わり目だ。 その友人が紹介してくれたセラピストに電話してみた。「あの〜、特に”これ”という相談がある訳ではないんですが...。こんな私がセラピーにかかっても良いんですかね」と聞いてみると、「オフコース!トランジション時は心に色々背負ってるものよ」。なるほど。 行ってみた。セラピストのエリッサさんは、私よりもずっと若い。何を話して良いんだろう、なんて私が気を使っている場合ではない。 確かに、自分のことだけを人に話す機会ってあまりない。おまけに過去の話を始めると、青春時代の風景が頭に浮かんできたりして、自分がその時間に戻った気にさへなる。確かに回を重ねる度に気持ちがすっきりしていく気がする。 私のように、何でも、一方的に話せる友人に会うような感覚でセラピーを受ける人もいるだろうが、セラピーは鬱、不安症、摂食障害、不眠症、性不一致障害等、バイポーラー、自閉症、ADHD、アスペルガーなどを持つ大人/子供も、受けている。 ある日、その日はたまたま午後4時のアポだった。セラピーオフィスのドアを開けたところ、映画館の前の人だかりのように、ヤングパパ&ママ風の人達が立って雑誌やスマホを見たりしている。 そう。この時間は学校が終わった後の子供達がセッションを受けるゴールデンタイムで、親達は支払いとピックアップでセッションを受けてる子供達を待っているのだ。 迎えに来てる、ということは、子供達は小学生だろう。 『母親達の選択』で、今のアメリカの若者の精神状態について色々書いたばかり。(詳しくはこちらを) 昨今は、セラピーを受ける子供達の年齢は下がってきているのだろうか。でもセラピーを受けることって、自閉症やアスペルガー、ADHDでなくても、子供にとって、親以外に何でも話せる大人がいるのは大きなプラスだと思う。 でもセラピーって保険が効かない場合が多いし、最低45分で150ドルかかるし、皆が皆受けられないよな〜。セラピー受けた方が良いのに受けられない子供達はどうしてるんだろう。 私ですか? ゴールデンタイム以外の料金は交渉可、ということを知り、続けています。 欧米企業は、期待の星を海外支店に赴任させるものの、本社に戻ってきてから彼らの得てきた経験や知識を活かすことなく、本社での日々の一社員に戻って行く、とザ・エコノミスト誌11/7-13, 2015号。 なんと欧米のトップ1000企業(米トップ500、欧トップ500)の1001人のCEOのうち、欧は60%、米は76%が海外赴任を経験していない、とか。 海外赴任を経験したアメリカ人数人に聞いてみた。答えは、「そうだよ。活かせる仕組みがない」、「活かしてくれる企業に移りたくなるね」。まさに記事の通り。 特に米国がビジネスグローバル化のスタンダードになっているから、トップは海外経験なくても良いんですかね。幸い英語も共通語みたいになってるし。日本の大企業のトップの海外赴任経験者の割合はどうなんだろう。 そういえば、子供の学校のダイバーシティ推進ディレクターに、「学校はグローバルに対応する教育といっていますが、ダイバーシティとグローバルは違うのでは?」と質問したところ、「NYの人種や文化のダイバーシティに触れることがグローバルにも対応できる人になるのでは?」という腑に落ちない答えだったことを思い出しました。 ![]() NYのコミュニケーションで一番気後れするのが電話! 日本でも機械みたいに、感情全く抜きで、マニュアル通り話す電話レップにイラっとすることがあるが、それでも大半が丁寧だし(丁寧すぎて敬語が不自然になってる、と思う時もあるけど)、問題は解決する。 20年NYに居て学んだが(もっと早く学べ!)、電話だと特に『言葉のギャップ』の文字が脳細胞に組み込まれて、それを振り切れず気後れして声が小さくてモゾモゾ話すことになる。すると、相手「なるべく早く切りたいし、この人は、サラッと流しても大丈夫」と受け取られ、相手のペースに巻き込まれ、こっちは聞きたいことも聞けずに電話を切る、という結果になる。 話は変わって地下鉄。NYではしょっちゅう地下鉄サービス変更が何の予告もなしにあるが、一応突然のサービス変更は車掌から車内アナウンスである。古い車両使いの地下鉄に乗ったら最後。アナウンス機能も古びていて何を言っているか判らない。困ったあなたは隣のアメリカ人に「何って言ったの?」と聞いてみよう。ほとんどの人が「良く聞こえなかった。困った」と応える。 つまり、電話でも、相手が「何言っているのか判らない」のは、あなたに原因がある訳ではないのです。 しつこいようだが、20年いて思うのは、人種によってアクセントが違うし、「この人いやがらせしてるのか」と思う程早く話す人もいる。コールセンターが国外にある場合の英語の判り難さは、アメリカ人さへも「I don't understand them!」と言うほど。 『言葉のギャップ』、に惑わされるのはやめましょう。それと、「電話終了後レップの対応についてアンケートに参加してくれますか」と聞かれたら、「Yes」にしておいて、実際の電話コミュニケを始めると、相手の対応が、グッとよくなります。 |
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June 2016
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